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by levin-ae-111
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長い題名の本46

この世はバーチャル(仮想現実)世界だ 
霊界は想念の世界で、無限に広大な精霊世界である。私たちがフォーカスしているこの世という現実世界は、全て神霊世界の移写であり、また縮図である。故に現界を「写し世」という。
例えば写真の富士山は小さいが、本物のの富士山は大高山であるように、神霊界は現界人の夢想だにしない広大なものなのである。
出口王任三朗は、『霊界物語』に次の様に記している。
すべての世界は霊界が主で現界すなわち形体界が従である。一切万事が霊主体従に組織されるのが、宇宙の真相で大神の御経綸である。現実界より外に神霊界の厳然として存在することを知らない人が、こんな説を聞いたなら定めて一笑に付して顧ないでありましょう。無限絶対・無始無終の霊界の事象は、極限された現界に住む人間の知力では、とうてい会得することは出来ないでしょう。

「いま、ここが仮想現実だとは信じられんが」
「現実とは何だ、明確な区別などできん」
「五感で感知できるものが現実というなら、それは脳による電気信号の解釈に過ぎん」
「この肉も本当は、存在しないんだよな」
「このスプーンも無いんだ。曲がるのはスプーンではなく、自分自身の心なんだよ」
これは、映画『マトリックス』のワンシーンで交わされた会話だ。

バーチャルというものを上手く表現しているが、実際にこの世はバーチャルな世界となるとどうだろうか。
 地球は太陽系の一惑星で、私たちの銀河一つに含まれる太陽(恒星)は約1000億個、地球総人口の15倍以上の太陽がひしめき合って存在している。これに惑星や衛星を加えると、想像を絶する数の天体が一つの銀河に存在することになる。
しかし、これと同様の銀河が現在確認されているだけでも1250億個、その実在を私たちは全く疑っていない。
確かに夜空を見上げると、満天の星が瞬いている。しかし、これらの星は真の実在なのであろうか。あなたの御爺さんは50年前に実在したが、今は亡くなってしまい実在しない。この様に実在とは、客観的に何処から、誰が見ても同時に在ることをいう。

 しかし月光が地球に届くまで約1.2秒、太陽光は約8分、隣の太陽系アルファ・ケンタウロスは4.2年、銀河中心付近の太陽は約3年掛かとされる。隣のアンドロメダ銀河の光は210万年、最も遠い銀河の光が地球に届くまで130億年も掛かるのである。
そうなると、私たちの頭上で輝く星の光には、あらゆる過去が入り混じって見えているわけで、真の実在とは言えないのではないのか。
私たちに見えているこの宇宙(この)はバーチャルそのもので、私たちはその真ただ中に居るのである。しかも私たちは真の宇宙どころか、逆転・裏返しの宇宙を見せられているのだ。

 仏教では外部の世界そのものを、心は写し取っているのではないと教えている。物の姿形など眼球の網膜に映り、その情報が視神経を通して脳に送られる。
これが眼識(視覚)で、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)も各々の神経を経由して、脳へ送られるのも同じメカニズムである。
脳に送られるのは人間の五識(感覚器官)が捉えた情報で、現代風にいえば脳への電気信号なのである。この情報を脳が解読し、映像を創りあげる。その創り出した映像を私たちは見ているのである。
私たちはこうして現実を意識するが、仏教では、それは真の実態ではないという。

 これについて、コンノ氏は面白い例えを記している。
ここに赤く色付いて、美味しそうなりんごがある。香りも芳しく、かぶり付くと甘酸っぱい何ともいえない美味しさが口中に広がる。これは一般的な人間の感覚であるが、それが猫や蛇など私たちと感覚の異なる生物にとっては異なって知覚されるはずだ、と。
それが人間を越えた超生命体となると、その感覚は私たちの想像の及ぶところではない。
 ノーベル賞の利根川進博士は、『精神と物質』で、「人間の脳の在り方が異なれば、私たちは異なった在り方の世界を見るであろう。だから私は唯脳論者であり、その意味で唯心論者である」と述べている。
利根川氏が言うように、私たちが診ているものは真の実態ではなく、脳が創り出している幻影である。
その虚像を私たちは確かなモノ、真の実態と認識して、それを基に外界を意識していることになる。私たちが体験している存在は、全て自分の心が創り出したものであり、このようにして世界が成り立っているしいうのが仏教の教える唯識で、また唯心論なのである。

 コンノ氏のように説明すれば、このように長くなる。私たちの認識は、例え客観的に寸分違わぬ同じモノを見ても、只の一人も同じ認識は無いと、私(ブログ筆者)は考えている。
そんな馬鹿なと思われるだろうが、厳密に言えばという事である。
しかし、このような事例は、私たちの生活の中に幾らでも転がっている。
この間など、上司と顕微鏡を使って製品の成分を覗いた。上司は色が薄く、透明だから素材はÅだろうと言い、私は明らかにそれをBだと思った。私には上司とは逆に、その素材の色が十分に素材Bだと考える程に濃い色に見えていた。
これは単に私と上司の視力の差ではない、視神経と脳の違いであるのだ。更に言えば、それは人生経験の違い、意識の差であるのだ。もっと言えば、上司と私の見ている(感知している)現実は異なっているのだ。
また、同じ光景であっても、その時の感情によって異なる感じを受ける場合もある。
私たちが確たる現実と信じているモノとは、かくもフレキシブルで頼りないものなのである。つまり、やはりそれは、幻とは言えないだろうか。
by levin-ae-111 | 2012-02-24 05:20 | Comments(0)