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by levin-ae-111
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中臣鎌足はなぜ藤原鎌足となったか


 中大兄皇子と共に蘇我氏を打倒し、日本史の表舞台に躍り出た中臣鎌足は、その後に政権の中枢を支配した藤原氏の祖として有名である。
一方で、中大兄皇子は後に天智天王として即位する。中大兄皇子と鎌足が蘇我入鹿を討った理由は、様々に推測されているが結局は政治的な姿勢の違いが原因であろうと思われる。

 さて、大化の改新後も中臣鎌足であったが、病床に臥した鎌足に天智天皇が藤原姓を与えたものと云われている。鎌足自身はその後に病死しているが、最期は中臣鎌足ではなく藤原鎌足として亡くなったらしい。
更に天智天皇は藤原姓に加えて、大臣の位も一緒に与えていることから、鎌足自身よりもその後継者に、より政治的な力と資格を与えたかったのかも知れない。
というのも、中臣姓のままでは古代の氏姓制度に縛られており、中臣氏が政治の中枢に加わるのは困難だと考えられたからだ。中臣氏は古代の制度では「連(むらじ)」に当たる。
「連」は特定の職業に従事する人々であり、他には大伴、物部(両方とも軍事関係の職業)などがあり中臣氏は祭祀に関わる職業の姓である。

 これでは中央政界では動き難いので、大織冠の位を与え、「連」の上の「臣」に格上げし、更に藤原の姓を与えて、その動きを助ける目的もあったに違いない。そのお陰で、鎌足の息子である不比等は政権の中枢に、それ以後も長々と続く藤原氏の権勢の基礎を築いたのである。

 中大兄皇子は日本書紀によれば、母親の斉明天皇が死去してもすぐには即位せず、母の死後6年も経てから即位したのだという。その理由も明確ではないが、どうやら朝鮮半島への遠征の失敗の責任を取ったものと思われている。
そもそも、蘇我氏との対立も朝鮮半島政策の食い違いという側面も否定できず、半島のどの国を支援するかという意見の対立があったのかも知れない。
更に実は藤原鎌足とは朝鮮半島の国、伽耶国の王族の血を引く人物であったという説や、天智天皇自身がそうであったとする説もあるらしい。

 その点について歴史書は余り語らないが、日本がこうした海外情勢の影響を強く受けるのは今も昔も変わらない。歴史上の出来事は実際にどうだったのか明確ではないが、それを推理するのは面白い。
中大兄皇子や藤原鎌足が活躍した時代と現代は、人々の身の回りは随分と様変わりしているが、人間の心理的な反応は物質的な環境の変化ほど変わっていないと言えるのかも知れない。その辺が現代の私たちに、歴史上の出来事を推測する手掛かりを与えてくれるのだ。
by levin-ae-111 | 2012-05-21 05:30 | Comments(0)