父とM君
2012年 05月 22日
それが見つかって購入を決めたというのだが、やっぱり違う車の方が良かったかなぁとか、自動車屋さんがネットで探したので、どうかなぁなどと、決めて申し込んでしまってから何だかんだと言う。
私が「申し込んでしまったのなら、今更もう遅いよ」と言うと、納得して黙った。しかし、今度は写真で見た車のタイヤが磨耗していたから、何処のメーカーのタイヤが良いかなぁ、とまた迷い出して、仕事中はその話しばかりしていた。
どうも、何かを決めた後でもあれこれと迷い心が定まらない傾向があるM君、彼のこの性格は実に私の父親にそっくりだ。
先日、仲の悪かった親戚の叔父さんが亡くなった。その通夜に行くとか行かないとか、父は全くハッキリしない。
その故人からは、以前に叔母の葬儀で謂われもなく酷い言葉を投げつけられていたし、その子供たちからも両親は無視されていた。他にも過去に、その家の人々から様々な迷惑を我が家は掛けられている。そんな事情もあり、父は迷いに迷っている。
何事につけて決めてからでもウジウジと悩み、言うことがコロコロと変転する。そんな父の傍で母は、いつもイライラしている。妹は感情的になり、通夜にも葬儀にも行く必要はないと主張している。
父はその場では口を合わせているが、依然として迷っており自分の意志を明確にしない。結局は私に決めて欲しいと言って来た。私は迷わずに、行きなさいと指示をした。
そして私自身も、葬儀には出席できないが通夜には行くことにした。私も故人には良い印象などカケラも無いが、今後の為に参加した。今後とは何時か必ず訪れる両親のその時のことだ。
先日も友人とその様なことで話しをした。もしもの時はどうするか、長男としては腹を括っておかねばならない。疎遠な親戚との付き合いは、両親の代で止める積りだとか、迷惑だから遠方の縁者には知らせないなど、様々なことを予め決定しておく必要がある。
妹や弟たちは、そんな事を考える必要もなく、ただ感情的に意見を言う。長男はそうは行かないのだよ、兄弟たちよ。私は感情的な面よりも、故人の葬儀をする人の立場が気になるのだ。世間では、同僚や知人の縁者というだけで見ず知らずの人の葬儀に参加し、苦しい懐から御香典や御仏前を出すではないか。それならば、幾ら仲が悪かったといっても親戚である限り、通夜や葬儀に誰かが顔を出すのは常識であろう。
その点で、私の中で是非はないのだ。例え結果として相手が我が家の通夜にも葬儀にも顔を出さずとも、感情的になって程度の低い連中の居る次元までこちらが落ちることもない。
逆に縁が切れて、清々するというものだ。私の考えは極めてシンプルなのだ。
行くべきは行く、最初から明確だ。妹たちの様に感情に振り回されて、自分自身で余計な苦しみを作り出す必要もない。
ますます複雑さを極める現代社会、少しでもシンプルに考えることは、楽に生きる手段の一つにもなるだろう。
私達は、日頃から複雑なことが高度なこと、或いは良いことだと思い込んではいないだろうか。真に高度なこと、良いこととはシンプルで物事に対して効果的なことであると私は考えている。反対に必要以上に複雑なやり方や手順は、エラーが発生し易く決して高度な方法とは言えないと思っている。皆さんは、どうお考えだろうか。
・付き合うものを害さない
・単純で万能である
という条件が入っていたと思います。
人間関係もこれ等に当てはまりますネっ。
ありがとうございます(^^)
私はただ頭の中身が足りなくて、複雑なことは考えられない
というだけなのですけど(笑)
確かに人間関係にも、バッチリと当てはまると思いますね。