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by levin-ae-111

原爆を描いた画家


 先の太平洋戦争では、日本が世界で唯一の被爆国となる暴挙が行われた。8月6日に広島市に、9日には長崎にアメリカによって人類初の原子爆弾が投下された。
広島にはエノラゲイ、長崎にはボックスカーと名付けられたB-29により投下され、悪魔の爆弾が炸裂した。
地上の惨劇は凄まじく、筆舌に尽くし難い惨状となった。その様子をリアルに描いた画家がいた。その画家とは丸木俊(とし)で、自らも被爆しながらも原爆の惨状を描き続けた。
殊に一連の「原爆の図」は、観る者に衝撃を与えずに置かない。

 俊は1912年に北海道で生まれ、旭川高等女学校を卒業後、千葉で教職に就く。1937年には外交官子弟の家庭教師としてモスクワに滞在もしている。二度目のモスクワ滞在の時に夫位里(いり)と結婚した。位里さんの実家が広島市街から2キロほど離れた場所にあり、新型爆弾が広島に投下されたと知り、心配して夫の実家に駆けつけ、そこで暫く過ごした。
その時に残留放射能により被爆し、自らも苦しみながら夫と供に「原爆の図」を描くことを決意したのである。

 夫の位里は水墨画で俊は油絵であり、二人は「原爆の図」を描くに当たって、手法の違いなどでぶつかり合いながらも、共同でこれを描き上げた。
「原爆の図」は1948年に構想し、1950年に1~3部を完成、1982年には15部を完成させている。「原爆の図」以外にも絵本「ピカドン」や「アゥシュビッツの図」「沖縄戦の図」「水俣の図」「水俣・原発・三里塚」などの作品も残している。
彼女は最初から原爆の絵を描いていた訳ではない。やはり広島で目撃した想像を絶する光景が、彼女を原爆画家に変えたのだ。
「原爆の図」を初めとする活動により、俊と位里はノーベル平和賞候補に挙がったこともある。

「原爆の図」は1編が縦1.8メートル、横が7.2メートルの屏風仕立てで、15部までの連作である。第一部の「幽霊」に始まり、第十五部の「長崎」で完結している。
これを世界20カ国以上で巡回展示を行った。
惨たらしい場面が殆どだが、平和への願いを込めた「署名」や「とうろう流し」なども一連の作品に組み込まれている。

 私も何時だったかテレビ番組で丸木俊の事を知り、作品を知った。その絵に非常にショックを受けたのを覚えている。ある意味で写真やフィルム映像よりも衝撃的であり、より鬼気迫る迫力を感じさせられた。広島で目撃した惨状が、彼女中の何かを変えてしまったのだろう。それ以前の彼女の作品は、やはり訪れた土地の人々が描かれているが、後の「原爆の図」の画風とは全く異なっていた。

 毎年、広島・長崎の慰霊祭に始まり、終戦の日を迎える度に多くの人々の犠牲に想いを致し少しでも後世に伝えねば成らないと感じる。先日とりあげた大場栄大尉の映画の一場面(民間人に投降させることを伝える場面)で、大場大尉は「皆さんは必ず日本に帰られると信じます。無事に帰った暁には、少しでも我々兵隊のことを、この島のことを思い出してください。そうすれば、我々も日本へ帰れます」という様な台詞があった。
 それは私たちが思い出すことで、尊い犠牲者の方々の御霊が少しでも救われるという意味であろう。

戦争は私たちの祖父母やその前の世代の話しであるが、決して遠い時代の記憶であっては成らない。原子爆弾や放射能も決して忘れては成らないものだが、現在の原発事故に関する政府や東電の態度を見る限り、原爆もチェルノブイリ事故もスリーマイル島の事故も、全ての教訓が忘れ去られているかに見えるのは悲しい限りだ。
放射能の後遺症に苦しみながら「原爆の図」を描き続けた丸木夫妻の努力も、平和を心底から訴える鬼気迫る想いも、原爆の犠牲者の想いも、何もかもが踏みにじられている気がして暗澹たる気持ちになってしまう。今年も終戦の日が間近に迫っている。
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by levin-ae-111 | 2012-08-09 05:22 | Comments(0)