身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
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少年時代の思い出5

 小学生の頃に、稀でしたが校長先生の授業を受ける機会がありました。恐らくは担任の先生に都合が出来て、校長がリリーフ登板したのでしょう。
校長は白髪頭の立派な体格の人で、その顔つきは厳格を絵に描いたように厳しかったのを覚えています。

 ある日、校長が授業をすると聞かされ、子供たちは何の授業なのだろうと少しドキドキして待っていました。校長は若い時の怪我が元で、足が不自由な方でした。
コツコツと杖の音と靴音を響かせて一段高くなっている教壇に立った校長が始めたのは、自身の戦争体験の話しでした。

校長は陸軍将校として部隊を率い、中国大陸で戦ったそうです。その体験は、とても壮絶でした。敵弾が自分から遠いのか、近いのか、その飛んで来る音で判断がついたという話しを皮切りに、自らの体験を淡々と話されました。

ある時、墓地で戦闘になったそうです。中国は日本とは違い土葬ですから、墓地には棺桶に収められた遺体が埋められています。
日本刀をかざして、敵陣へと突入しようとした時、校長は突然に地面に開いた穴に落ちてしまったそうです。穴の正体は埋められた棺の蓋が腐って、土と校長の重さに耐え切れずに陥没したものでした。中には腐敗した遺体があり、白骨化したものもあったそうです。

次は放棄された建物に入り野営した時の話しでした。隊長であった先生は、兵士たちとは違い個室で眠ることに成りました。ベッドの上に横になると、何だか異臭がする。
見るとベッドの下には棺桶があり、遺体が収められていたそうです。
非常に恐ろしかったが、隊長がそんな泣き言を言う訳にもいかず、何とか一夜をその部屋で過ごしたそうです。

 校長は空襲も経験されました。戦闘機が機関銃を撃ちながら、上空から狙ってきます。周囲には着弾の土煙が舞いあがり、生きた心地がしなかったそうです。
ただやはり隊長だった校長は冷静でした。「敵のパイロットもなかなか勇敢だった。垂直に近い角度で急降下して銃撃してきたのだから、敵も命がけだった」と、話しておられたのが印象に残っています。

そして、後の戦闘で校長は足に敵弾を受けます。その時の衝撃は、痛いというより何か丸太で強く足を殴られた様な感覚だったそうです。それから焼けた火箸に触れた様に熱いのだそうです。暫くは痺れたようになりましたが、それが過ぎて初めて痛みを感じたそうです。野戦病院に運ばれ、やがて校長は本土へと送還されて、終戦を迎えたのだそうです。
その時の校長がどういう経歴の持ち主であるのか、子供の私たちには分かりませんでしたが、戦争という悲劇に巻き込まれた青年の一人であったのに変わりない事だけは理解できました。

あれから随分と時間がながれ、校長先生は当時の年齢から推測して、もうこの世の人ではないでしょう。校長は部下や仲間の死を何度も目前にされたそうですが、ただ自分の武勇伝を聞かせたかったのではなく、「お前達、戦争とはこんなものだった」と、子供たちに伝えたかったに違いありません。

あれから40年以上を経て、私がこのような事柄を記すのも、そういう先人達の意志を若い人々に伝えたいと願うからです。
古き時代の子供たちの生活は、玩具も何も無かったけれど、真っ暗に成るまで外で遊び、自然と戯れた豊かなものだったと伝えたいのです。
学校でも先生たちは個性豊かで、最低のルールを逸脱しない範囲で、一生懸命に子供たちの面倒をみて下さっていた時代でした。周囲の大人たちも、自分の子にも他人の子にも同じ様に接してくれた時代でした。
そういう思いやりのある時代に育った私は、ある意味で幸せ者であったと思います。
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by levin-ae-111 | 2012-08-18 05:21 | Comments(0)