中臣鎌足は韓人だったのか?
2012年 09月 01日
さて中臣鎌足といえば、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を殺した乙巳の変の主役である。
この中臣鎌足が、実は韓人(朝鮮半島の人)ではなかったのかという疑惑がある。
そういうのも入鹿の息のかかった人物、古人大兄皇子が自宅に駆け込み「入鹿が韓人に殺された!!胸が張り裂けそうだ!!」と叫んだと伝わるからだ。
その言葉のままに受け取れば、入鹿を殺したのは日本人ではなく外国人、さらに韓人だということになる。日本書紀にはこの部分を韓人=朝鮮の人ではなくて韓人とは朝鮮半島の国々に対する外交政策を巡る問題だと書いてあるらしい。
しかし、この日本書紀の記述には不自然なものを感じる。どうも入鹿殺害の現場には、本当に不審な韓人がいたのではないか。
その不審人物こそが、中臣鎌足その人かもしれないとの疑いが浮上する。通説では中臣氏の祖は常陸の国や九州といわれている。変わったところでは、韓半島にその祖を持つという説もあるらしい。
古人大兄皇子の「韓人」という言葉は、文字どおり韓の人を指しているのではないか。古人大兄皇子はどうして「中大兄が、入鹿を殺した」或いは「中臣鎌足が入鹿を殺した」と叫ばなかったのだろうか。何故に「韓人に殺された!!」と言ったのか。鎌足が韓人で直接に入鹿を手に掛けたとすれば、この言葉の意味が納得できる。
入鹿殺害の後に中大兄皇子はすぐに即位せず、ほとぼりを冷ますかのように十分な日数が経過してから即位している。そして天皇となった中大兄は、鎌足の臨終に際して藤原の姓を授け、政治に参加できる資格を与えている。
その甲斐あって、鎌足の子である藤原不比等から、藤原氏の目覚しい躍進が始まり、道長の時代に最盛期を迎えるのである。
入鹿と中大兄の間には、確かに韓を巡る外交的意見の対立があったのかも知れない。韓人である鎌足が中大兄と組んで、自らの祖国に有利なように日本の外交政策を変更させようとしたのだろう。鎌足にとって、入鹿の外交政策は不都合であった。中大兄にしても、目の上のコブであった入鹿を始末し、自らの立場を強化しようとしたのだろう。
そうであれば利害の一致した二人が、共同して入鹿を殺したというのが乙巳の変の真実だろうと私は推測するがどうだろうか。
更に鎌足は一般の韓人ではなく、朝鮮のどこかの国の支配階級の出身であったのだろう。そうでなければ、皇族である中大兄皇子に近づくことは困難であったろうし、外交政策を巡って入鹿を殺す必然性もないかららだ。