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by levin-ae-111
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海軍撃墜王列伝

①杉田庄一
 杉田庄一少尉は、最終的には100機以上を撃墜したといわれる。杉田は20歳で戦死するまでに、驚異的な撃墜数を記録した日本海軍航空隊のエースである。
最後はエースパイロットを集めた松山343航空隊で闘い、愛機「紫電改」と供に散った。
杉田ほどのエースになると、幾つかの英雄的エピソードを持っている。

例えば敵の大型爆撃機に肉迫し過ぎて接触し、自機の垂直尾翼を失いながらも生還したという話しもそのひとつだ。しかし杉田庄一が一生の不覚と悔やみ、その後にはより凄まじい活躍をするに至るエピソードがある。
それは連合艦隊指令長官山本五十六の機上戦死というショッキングな出来事に由来する。

昭和18年4月にラバウルを視察に訪れた山本は、兵士の士気を鼓舞する為に更に激戦地への訪問を試みた。2機の一式陸上攻撃機に分乗した山本一行は、僅か6機の零戦の護衛だけでラバウルを飛び発った。
その護衛機の1機が杉田だった。山本の視察を迂闊にも打電した為に、アメリカ軍は戦闘機を上げて待ち伏せしていた。

多数の敵機を相手に杉田たちは必死に戦ったが、彼らの目前で山本一行の乗った一式陸上攻撃機は無残にもブーゲンビル島上空で撃墜されてしまった。
山本を死なせてしまったという痛恨の事態が、その後の彼を変えたのであろう。一時期は死を考えた杉田だったが、生きて生き抜いて一機でも多くの敵を落とすと決意を固めて闘い続けた。

②岩本徹三
 岩本徹三が空母勤務からラバウルへ転属したのは、昭和18年2月であった。その時には既に戦況は悪化しており、ラバウル航空隊は連日100機以上も来襲する敵機との攻防に明け暮れていた。味方1機に対し敵は3~4機という割合であり、加えて1日に何回も出動するという日が続きラバウルのパイロットたちは疲弊していた。

 当時の日本パイロットの戦法は、弧を描いて互いの後を取り合う巴戦という戦法が一般的だったが岩本は一撃を掛けて相手から離れる一撃離脱戦法を取っていた。小回りの利く零戦に対して、米軍は敢えて巴戦を避けていたから、この戦法はもう古いものだったが岩本意外の他のパイロットたちは頭の切り替えが出来なかったようだ。
岩本は上官から一撃離脱戦法を非難され、鉄拳制裁を受けることもあったらしい。
だが反面で、岩本を信頼する上官や部下からは、厚く遇されていたようだ。

岩本は敵機の編隊に対する空中爆撃とでもいう攻撃を実施し、大いに戦果を上げている。これは敵編隊上空で時限式の爆弾を落とす。爆弾は時間が来ると空中で炸裂し、多数の焼夷弾を散布するというもので、今でいうクラスター爆弾で敵機を落とすという作戦だった。
散布範囲は幅100メートル、高さは60~70メートルというもので、広範囲のようだが相対する敵編隊の上空1000メートルから狙いを定めて投下する必要があり、実際にはとても困難な作戦であった。
岩本に出来なければ、他の者には無理だろうとまで言われたが彼はこれを見事に成功させている。

岩本は日華事変から太平洋戦争に至る8年間を前線で戦い続け、その撃墜数は202機と伝わる。生きて戦い抜くことを信条としていた岩本は、特攻志願書に「否」と書いた唯一のパイロットであった。岩本徹三は自身の信条を貫き、闘い続けながら終戦まで生き残った。

③武藤金義
 撃墜数は28機とも或いは34機とも伝わる。新婚ホヤホヤだった武藤は、自分の結婚式の時にさえ空に在って、出席していないというエピソードを持つ。
武藤金義の戦歴は、96式戦闘機を駆った中国大陸での戦いを振り出しに、主にソロモン・ニューギニア方面の戦線を転々とした。
 
しかし命令により本土へ帰還し、結婚してから一年程して初めて新妻との生活が出来た。だがそれも束の間、硫黄島への転戦が命じられ、再び最前線の勤務となる。硫黄島では既に搭乗する飛行機もなく、武藤たちパイロットも陸戦隊員として玉砕の覚悟をするまでに追い詰められたが命令により何とか本土へ帰還した。

その後は厚木基地上空で、来襲したグラマン13機をたった一機で迎撃し、地上で人々がハラハラして見守る中、4機を撃墜し無傷で帰還するという離れ業を見せた。
この時の武藤の戦法は、敵に近づき向かって来るのを待ってこれを撃墜し、サッと逃げる。
敵が諦めて編隊に戻ると、また武藤が接近する。そうして敵機を少しずつ誘い出して、各個撃破するという戦法であった。最初は意地で向かって来た敵機も、あっさりと撃墜される味方を見て遂には逃げ出したという。

厚木時代は武藤の短い結婚生活の中で最も幸せな時であったろう。妻と生まれたばかりの娘との生活だったが、戦時下という不幸な状況ではそれもまた長続きはしなかった。
武藤金義は源田実大佐の343航空隊に呼ばれ、連日の激戦の中で圧倒的な敵と戦い続けたが他の伝説的なエース達同様に遂に帰らぬ人となった。
by levin-ae-111 | 2012-09-04 05:24 | Comments(0)