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by levin-ae-111
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藤原の陰謀


 藤原不比等が朝廷での権力を奪取し、更にそれを固めようとした時に反発を強めた人物がいた。天武天皇の孫である長屋王である。その父は天武の長子である高市皇子であるとされる。
不比等が死亡した時の地位は右大臣であり、最高の地位にあったが長屋王はそれに次ぐ地位にあり、不比等の死で自動的に最高位に上った。神亀元年(724年)に聖武天皇が即位した。
この天皇は藤原から嫁いだ藤原宮子の産んだ子で、藤原氏としては悲願の藤原の血を引く天皇であった。

 長屋王はこの時、左大臣の地位にあり、朝廷内での藤原と長屋王の力関係は微妙なものとなった。更に長屋王の台頭は、不比等の遺児である藤原四兄弟を奮いたたせた。
彼らは共同して長屋王の失脚、或いは殺害へと動き出す。
中でも次男の房前(ふささき)は、左大臣よりも上の位を強引に捏造し、それに自分が就任してしまうという暴挙に出た。
「内臣」(うちつおみ)という捏造された位は、天皇と同等の権力を持つとされ、この地位に在る者は律令の適応外のとされた。

 事件が起きたのは聖武天皇が即位した直後だった。聖武天皇の母、藤原宮子を「大夫人」と称するとの勅(みことのり)が出され、これに長屋王一派が反発した。
律令にないその称号は、明らかに律令に違反しているから、天皇の勅と律令のどちらに従えば良いのかと、クレームをつけたのである。
藤原にすれば聖武天皇の妃の一人である光明子を、皇后の地位にまで押し上げたいと考えていたのだろう。しかし「不文律」では皇后は皇族からとされていたから、藤原の血筋が天皇に即位する可能性を高めたいと考えた。そして悪賢い不比等は律令作成にあたって、故意にこの部分を明記しなかったのだろう。

 無論、藤原氏は皇族ではないので、光明子が皇后に成れる筈はないのであるが、この規定が「不文律」という処に藤原は目を付けた。それで将来を見越して聖武天皇の生母である宮子を「大夫人」として、前例を作っておきたかったのだろうと関裕二氏は推測する。
長屋王側もそれを承知していたので、宮子に特別な称号を与えることに強く反発したのだ。
そして長屋王の反撃が実り、結果的に宮子への「大夫人」という称号の授与は無くなった。
恥をかかされた藤原は、長屋王の殺害を図る。そして「左道(良くないこと)を学び、国家を傾けようとした」という謀反の罪で長屋王一族を殺害した。
この時代、謀反を企んだ一族は根絶やしにされるのが常識だが、不思議なことに(当然か)藤原から嫁していた女子は助かっている。

この事件について「続日本紀」には、無実の罪であったと明記されている。要するに一族による国家の完全支配を企む藤原氏が、邪魔者を強引に消したという事件であった。
後に密告者が「長屋王の謀反は嘘だった」と証言しているし、それが記録に残されているのも不思議である。
この藤原氏の暗部を認める記述が何故に残されたのであろうか。恐らくは長屋王一族を始末した後に、藤原四兄弟が相次いで不審な死(当時としては)を遂げたからであろう。
祟りという現象が固く信じられていた当時、都を襲った天然痘で藤原四兄弟が死亡した事実が長屋王の祟りとして捉えられたからであろうと思う。

 それにしても日本の古代世界では、頻繁に祟りとか怨霊とかいう化け物が跳梁跋扈していた。天皇が祟りを恐れて遷都したり、祟りで多くの貴族が亡くなったとされている。
古代日本では罪無くして処断された人々は、たちまちに怨霊となり、彼らを陥れた人々に復讐するのである。祟られた側は寺社を建て、お抱え坊主どもに供養させて怨念を鎮める、或いは封じ込めるという手に出るのである。
現代では学問の神様として有名な菅原道真もまた、罪なくして大宰府に左遷され死後は雷神となって宮廷を襲ったという。
果たして怨霊と成った人々が本当に祟ったかは疑問だが、陰謀を巡らせ人を陥れた側の人々がピュアな感性を持っていたことが意外である。

 参考文献
 古代史「封印された謎を解く」
関 裕二 著
by levin-ae-111 | 2012-09-24 05:24 | Comments(0)