米は日本人の主食ではなかった!!
2012年 11月 24日
これらの言葉は、国の民という基本的意識の表れた言葉でうるという。これらに共通するものは米である。
民とは「田を作る身」であり大税とは「正税」のことであり無論のこと米を指す。また私とは「我が田の串」の略、年とは稲の漢音「トウ」に由来し、年に一度の収穫を意味しているのだと日本国語大辞典にあるらしい。
こうした国民意識に関連する言葉が米に由来することを見れば、日本の国で国民という意識が稲作文化とともに芽生えたことが分かる。古代国家成立の精神を追求した山上春平は、天皇家の祖先である天照大神を祭る伊勢神宮の神殿そのものが、米倉のデザインであると指摘している。天皇家の先祖、天照大神は稲を納める高床式倉庫を住まいとし、米を主食としていた。『米は日本の神と天皇の食べ物であった』ということである。
だがそれは、『米は日本人の主食である』という意味には成らない。日本の民が米を主食にするようになったのは、それほど古いことではないのである。
こういうと弥生時代から日本人は米を食べていたではないか、という反論が聞こえてきそうである。稲作が朝鮮半島から伝わったのは紀元前300年頃というが、それが九州から東北地方に広がるのは300年頃であったというから、結構な年月を要して普及したものであることが分かる。
しかし、これを以って日本全国に広大な水田が広がり黄金色の稲穂が穂先を垂れていて、誰もが米の飯を食べていたというのとは違う。現実問題として当時の稲は実りも少なく、籾も貧弱なものであり、収量は決して多くはなかった。
例えば弥生時代の代表的な遺跡とされる遺跡に、静岡県の登呂遺跡がある。3万坪の敷地に12戸の住居と、2棟の米蔵があり、周囲には水田が広がり水路と畦が巡らせてある。
この集落の人口は約60名と推定されている。
この住民たちが毎日、米の飯を食べたとすると何と45日しかもたない計算になるらしい。
これだと多く見積もっても必要な食料の30パーセントにしかならず、決して米が弥生時代の人々の主食とはいえない。他は縄文時代と変わらず、木の実や他の雑穀が主であった。
米を食したのは、恐らく祭などのハレの行事に限られていたのではなかろうか。私たちがイメージする稲作と、弥生時代のそれは大きく異なっているのだ。
ここに一つの謎がある。それは何故に主食にも出来ない稲作に励んだのか?ということだ。水田による稲作は他の作物よりも手間が掛かり、水路などの栽培環境を造営するにしても大変な労力を必要とする。要するに費用対効果の悪い稲作を、何故に推進し現代にまで至る稲作文化を築き上げたのかという大いなる疑問が残るのだ。