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by levin-ae-111
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『千姫』悲劇のプリンセス

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 千姫は織田信長の妹とされる『お市の方』と、北近江の戦国大名『浅井長政』との間に生まれた三姉妹の一人『お江』の娘である。
お江が徳川家康の次男『徳川秀忠』に嫁し、千が生まれた。
当時は徳川幕府の世ではあったが、依然として旧支配者であった豊臣家を思慕する大名も多く、始まったばかりの徳川政権はまだまだ不安定な状況にあった。
そこで家康は幼い孫娘『千』と、秀吉の忘れ形見の『豊臣秀頼』の政略結婚を考えた。
1603年に僅か七歳という幼い孫娘を、秀頼の許へと嫁がせのである。
秀頼はお江の姉の『淀殿(茶々)』が産んだ子であり、千と秀頼は従兄弟である。

 政略結婚とはいえ、千と秀頼は兄妹どうように育ち、二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた様だ。1615年の大阪夏の陣で抵抗虚しく大阪城は落城し、夫秀頼と姑であり叔母でもある淀殿が亡くなった。千は家康の命により子供たちと共に救出された。
その直後から千の苦労が始まる。秀頼と淀殿、そして側室の子の助命を願い出る。
祖父家康は千の願いを聞き入れるが、ただし父である秀忠にもお願いせよという。千はすぐさま父の許へ走るが、父は嘆願をいれず結局は二人とも殺されてしまった。
唯一、許されたのは女の子の助命で、この時千はこの子を自らの養女としている。
 
その後に千は家臣の本多忠正の嫡男、忠刻に嫁ぐ。主筋の姫が家臣に嫁するのは、当時では異例の越し入れであったという。
千は忠刻にも愛され、二人の仲は良かったと伝わるが、最初の男子が僅か3歳で死亡してから何度も流産を繰り返し千は随分と苦しんだようだ。神仏に祈り、易経に頼り、何とか子が欲しいと努力したらしい。
しかし更に悪い事が千を襲う。本多の義父や実母の江、優しい夫の忠刻が相次いで病死。
その後に弟の徳川家光(将軍)の勧めにより江戸城に入り、出家して天樹院となって唯一の実子である勝姫と二人で暮らした。娘の勝が秀忠の養女となり、池田家に嫁いでからは一人暮らしとなった。

こう見ると不幸の連続であったかに感じるが、千は嫁ぎ先では愛され大切にされたのも事実であるらしい。豊臣家では姑が実の叔母であり、本多家では主筋の姫様であったから大切に扱われたのも当然であったろう。出家してからは、縁ある人々を影から支えた。
助命のために養女とした奈阿(天秀尼)が住職を務めていた東慶寺は、駆け込み寺として当時の女性にとって唯一の拠り所だった。ある時、大名家から逃げ込んだ女性の引渡しを執拗に求められて、東慶寺は窮地に立たされた。
この時、弟の将軍家光に働き掛け、将軍の命を引き出して義理の娘と当事者の女性を救っている。
また娘の勝姫が嫁していた池田家の領地、岡山が未曾有の大洪水に見舞われた。その後には凶作となり、藩の備蓄米も底をつき、数千人の領民が餓死する事態に至る。
この時、千は自ら2万両を用意し、幕府に運動して更に2万両を念出し、計4万両を岡山へ提供し大いに藩の窮地を救ったという。

 幼少から政治情勢にその運命を左右されながら、それでも賢明に生きた戦国乱世最後の姫君であろう。それにしても蝶よ花よと育てられた娘が、力強く、そして慈悲深い人と成ったのは自らの数奇な運命に翻弄されたからであろうか。
徳川家の孫娘という以上に、人間としての慈愛を示した彼女もまた、美しい日本の心を顕現した偉人と言えるだろう。
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by levin-ae-111 | 2013-04-16 05:40 | Comments(0)