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by levin-ae-111
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歴戦のパイロット本田稔氏

 本田稔氏は戦中戦後を通じて、一貫して飛行作業に携わり9800時間以上の飛行経験を誇る超一流のパイロットである。
操縦した飛行機は練習機に始まり、零戦、紫電改、99又軽爆、零式輸送機などを戦中に移送などの任務を含めて操縦している。本田氏は飛行の基本は、どの飛行機も同じと言い切る。だからこそ、様々な飛行機を操縦できたのだろう。
戦後は航空自衛隊へ入隊し、訓練教官として勤務した。退官後は民間航空会社のテストパイロットを勤めた。本田氏にとって飛行機とは人生そのものであり、これを取ったら抜け殻の様なものだと氏は語る。

長年の飛行経験では、常識では考えられない程の多くの経験をされたようだ。
本田氏の零戦との出会いはぶっつけ本番で、戦中に任地へ赴いて初めて零戦を見たという。訓練生時代から射撃が苦手で、撃っても撃っても命中させられず、零戦での初めての空中戦でも弾切れになるまで撃ったが当たらなかったという。
相手はバッファロー戦闘機だったが、最後は相手が勝手にジャングルに突っ込んだのだという。それから多くの経験を積み、激しい戦闘を生き残るパイロットにまで成長した。
最後は源田実の率いる343航空隊で闘い、終戦を迎えている。

本田氏のパイロット生活の中で特筆すべきは、2度の原爆投下の場面に遭遇したことであろう。広島の時は紫電改を受領した帰り、広島付近で原爆の爆風に煽られて墜落寸前になったという。「煙も炎も見えず、広島の街が消えた」彼が観たのは、閃光と不気味なきのこ雲だけであった。長崎に関しては「どうして迎撃しなかったのか、あの時に迎撃していれば長崎に原爆は落ちなかった」と、本田氏は悔しがる。
その時に自分が出ていれば、体当たりしてでも投下を阻止できたのにと。それから、日本が被爆後に十分に調査をしていれば3.11の原発事故にも違う対処が出来たかも知れないと本田氏は考えているようだ。更にあらゆる事柄について、事後の調査を十分に成されていれば、同じ失敗を繰り返さずに済んだと指摘されている。

 さて日本軍がラバウルからガダルカナルへ飛行隊を出して戦っていたのだが、片道3時間半、往復で7時間を掛けて進撃し、ガダルカナル上空で10分か15分の空中戦を行う。
そういう状況が、毎日続いたのだという。当然パイロットたちの疲労も尋常ではなく、居眠りで墜落するパイロットも多かったという。無線でもあれば起せただろうが、当時の零戦にまともな無線は無かった。食事は弁当で、いなり寿司などであったが、高空を飛ぶためにパリパリに凍っていたという。
 
 本田氏は悲惨な戦闘を潜り抜けて来たのだが、その話しは非常に淡々としていて冷静である。その原点は飛行学生時代に、教わった教官による影響が大きい様だ。
教官は厳しいことで有名な人で、初日に30センチ程度の棒を各自に用意させたという。
何の為に?理由は学生を叩く為である。
一緒に練習機に乗ると、不味い操作をすればゴツンとやる。本田氏もコブだらけに成ったという。しかし教官の信念は素晴しく「基本は教えてやる。だが、本田の操縦は教えられない、自分で会得せよ」というのだ。
そのお陰で本田氏は自分で考えて操縦する習慣がつき、様々な局面で危機を切り抜けられたのだという。航空自衛隊で教官を務めた時も、この先師の教えを学生たちに伝えたという。

本田氏が悔やむのは、ある日の闘いで撃墜した米軍機のことである。そのF6Fは単機で飛行していた。本田氏の紫電改が後方から接近しても気付かない。
パイロットは後ろを警戒することなく、真っ直ぐに前だけを向いて操縦している。
本田氏は暫く様子を見ていた、心の中で「恐らくは若いパイロットだ。初めて戦闘に参加して、生き残り、安心して帰ることだけを考えているのだ」と思ったという。
見逃そうと思う反面で、反射的に機銃の引き金を引いてしまっていた。F6Fは本田氏の目前で引き裂かれ、爆発した。
可哀想なことをした・・・本田氏は今も後悔している様であった。

 面白い意見だが、本田氏は零戦や多くの日本海軍機は戦争をする飛行機ではない、と言う。その理由は防弾装備が無いからだ。反面で紫電改は戦争を出来る飛行機であるという。勿論、防弾装備が成されていたからである。
本田氏はベテランだけあって、エピソードに事欠かない。盲腸炎の抜糸の後で、迎撃に出たら傷が避けて腸が出たとか、被弾して飛行機の床に大穴が開き非常に怖かったとか、P38と最初に遭遇した時は爆撃機だと思ったのが追撃して来たので驚いたとか、玉音放送はラジオの雑音が酷くて何を言っているのか分からなかったなどと面白い。
民間飛行機メーカーに勤めていた頃も、夜間飛行で出来たばかりで誘導灯も管制塔もない飛行場に着陸したとか、戦闘機に乗っていた時と同様に危険なことも有った様だ。

 何れにしても日本海軍のエースパイロットの一人であった本田氏が、自らの業績を誇ることもなく誇張もせずに淡々と経験を語る姿が印象的だった。
しかし、実際に経験した人とは、そういうものかも知れないとも感じた。
Commented by levin-ae-111 at 2013-04-29 22:47
誤字があるのに、どういう訳か編集画面になりません。
「傷が避けて」ではなく「裂けて」です。
by levin-ae-111 | 2013-04-29 16:30 | Comments(1)