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by levin-ae-111
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女たちの闘い


 1868年、新政府軍は江戸城を開城させると、一気に北上し最後の抵抗勢力である東北へと迫った。会津藩を中心にした東北各藩の連合軍は必至の抵抗を試みるが、圧倒的な新政府軍の勢いに次々と敗走し、母成(ぼなり)峠(とうげ)の突破を許すと敵軍は会津城下へと迫った。 
会津城下では男性たちは出陣して不在であり、女性たちは鶴ヶ城へと避難していた。

その鶴ヶ城では次々と負傷兵が運びこまれ、女性たちが献身的に看護に当たっていた。
しかし新政府軍が間近に迫り、射程の長いアームストロング砲から打ち出された砲弾が次々と着弾し城のそこ此処で炸裂する。
騒然とする城内で、女性たちは勇敢にも布団を濡らし砲弾に被せ必死に爆発を防ぐ、消火するといった決死の闘いが続けられた。
中には新島八重の様に、鉄砲を持って戦う女性も存在した。だが長らく続く籠城で食料が不足し、体力の尽きた負傷者は少しの怪我でも死亡するという事態に陥っていた。
そこで女性たちは有志を募り城下へ食料の調達に出ていた。戦火を掻い潜り、無事に食料を持ち帰ったという記録も存在するという。

さて女性の戦いは幕末の会津に限ったことではない。実は古くから兵卒としてではなく指揮官として戦の陣頭に立った女性は幾人も存在する。
古くは三韓征伐で有名な神功皇后がいるが、戦国時代にも多くの女性たちが夫や城主が不在の場合に陣頭指揮を執っている。
大友宗麟の家臣の妻で妙林という女性は、夫が島津との戦で戦死した後に、居城である鶴崎城へ押し寄せた敵軍を撃退している。落飾(髪を切り)して尼姿になって、陣羽織を着て敵陣へ切り込んだというから凄まじい。更に工事をして城の防備を徹底的に固め、挫けそうな男共を叱咤し城を守り切り、遂に島津軍を敗走させた。更には敗走する島津軍を追撃し、首印まで上げたというから、もう並の男以上の猛将ぶりであった。

また立花宗成の妻で誾千代は夫の出陣の際には同道し、天下分け目の関ヶ原の戦の時には黒田官兵衛と加藤清正に抗って見せた。
西軍に付いた夫の留守に侵攻した黒田と加藤の軍に対し、彼女は鎧を着て奮戦したという。ただ、名将の誉れ高い黒田と加藤に勝てる筈もなく、最終的には城を明け渡しているが、女性の細腕で猛将二人に抗っただけでも大したものである。男性であれば闘わずして城を明け渡す、という事も十分に考えられたであろう。

最も有名な闘う女性は『のぼうの城』という小説が映画化され話題となった忍(おし)城(じょう)主の娘、甲斐(かい)姫(ひめ)であろう。従妹である成田長親の助けがあったとはいえ、父不在の折に押し寄せた27000の石田三成の軍に僅か800の城兵で対峙した。
豊臣政権にとって最後の抵抗勢力は小田原の北条氏であったが、忍城は小田原方の支城のひとつである。幾つもの支城が落城する中で、甲斐姫に率いられた忍城は最後まで抵抗を続け遂には落城することは無かった。
甲斐姫は当時19歳といい、武芸に秀でているばかりでなく、その美貌は東国随一といわれていたと伝わる。自ら甲冑をまとい戦いに出て石田軍を翻弄し、悩ませたという。
結局は本城である小田原が落ち、忍城の戦いは終息したのだが、最後まで戦い続けた城兵たちは豊臣方の尊敬をも勝ち取った。
甲斐姫の活躍で父の成田氏長は、2万石の大名に出世した。甲斐姫自身は女好きの秀吉の側室となり、大阪夏の陣の際には秀頼の娘の脱出を成功させたと伝わる。

 さて現代でこそ女性が・・・と感じるが、戦国などの乱世では女性が戦いに出る事も珍しくはなかったのであろう。男たちが不在の場合でも、敵が押し寄せれば城主の妻や娘が指揮官となり、これを撃退すべく戦いに出たのである。
恐らくは今の女性たちも男性が余りに不甲斐ないと見れば、同じ様に前線に出て戦うかも知れない。考えてみれば本来人類は母系社会であり、女性が先頭に立って物事を進めても当然なのかも知れない。少なくとも、女性たちにはその能力が備わっているのだ。
かかあ天下は上州だけに限らない。日本では古くから妻のことを『山の神』と呼んで恐れる。女性が持っている底力と執念は、とうてい男共の及ぶものではないのである。
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by levin-ae-111 | 2013-07-21 10:27 | Comments(0)