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by levin-ae-111
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連合艦隊『黄海海戦』2

 連合艦隊は鴨緑江の西方の大孤山沖を航行していた。艦隊の露払いは快速巡洋艦『吉野』『高千穂』『秋津洲』『浪速』の四隻で一列に成って進む。
その後方には『松島』『千代田』『橋立』『厳島』が進み、『比叡』と『扶桑』が後方を固める陣形で進撃していた。更には軍令部長が乗船している仮装巡洋艦『西京丸』と、護衛艦の『赤城』が随伴している。
先頭を行く『吉野』の見張り員が水平線に一条の煙を発見し、『吉野』は全速でその方向へと走る。更に観察を続けると一時間もしない内に、幾筋もの煤煙を発見する。
『吉野』のマストには、スルスルと「敵艦見ゆ」の信号旗が揚がる。

 それを受けて連合艦隊初代司令長官の伊藤中将は、直ちに全艦に戦闘配置を下命する。しかしながら敵はまだ遠い。戦闘開始が昼頃に成ると目算した中将は、いつもより早い給食を命じる。
艦隊は相変わらず『吉野』を先頭にした縦列隊形で進撃している。いよいよ敵艦隊との距離が縮まり、敵艦隊の隊形が明らかになる。
清国北洋水師は7400tの巨体に30センチ砲4門を搭載する旗艦『定遠』と同型艦の『鎮遠』を中央にした横隊形で進んでいる。
この時の清国艦隊は10隻で、先の二隻が7300tを超える。他には3000tクラスが2隻、2300tが3隻、1300tが3隻という戦力であった。
何れも21センチ砲と15センチ砲は複数搭載する装甲艦で、強力な装備を誇っている。
更に2000tクラス巡洋艦に率いせられた数隻の装甲艦が、本隊の後を追って進撃していた。

 彼我の戦力は数の上でほぼ同数で、総トン数でもほぼ拮抗していた(清国は35000t、我が方は39000t)。
この理由は清国艦隊が巨艦二隻を擁しているが、他は比較的に小型の艦が多いのに対し、我が方は4000tクラスの巡洋艦が中心であったからだ。
武力を比べると20センチ以上の大口径砲では、我が方は清国の半分以下だった。それでも12センチの速射砲の比較では清国21門に対し、我が方は95門と圧倒していた。
艦の速度においても我が方は『吉野』の22ノットを筆頭に、旧式艦の『扶桑』『比叡』を除き全艦が16ノット以上を確保していた。
対する清国艦隊は18ノット以上を出せる艦は僅かに2隻にとどまり、機動性では我が方に軍配が上がる。

その内に彼我の距離が縮まり、午後1時過ぎに遂に砲撃戦が開始される。距離が6000メートルに成ると、まず『定遠』の30センチ砲が火を噴く。それを皮切りに清国艦隊の各艦艇が次々と砲撃を始めた。
敵弾が周囲に水柱を上げる中を、我が艦隊は発砲せず高速巡洋艦『吉野』を先頭にした縦列隊形を維持したまま突き進む。
ここで期せずして縦列隊形と黄列隊形の闘いとなったのだが、彼我の目論みがその隊形に出ており面白い。清国側は砲の配置が主に前方に向いているのと、体当たりで敵を沈める攻撃に適した隊形である。
我が方は平均16ノット以上という優速を生かし、自在に艦隊運動が出来る縦列隊形を選択していたのである。

 距離が3000メートルに近づくと、遂に『吉野』が初弾を発射した。それを皮切りに我が方の各艦艇が速射砲をつるべ撃ちに発射する。敵陣の右翼の二隻がたちまちにして炎と煙に包まれ、隊列から脱落して行く。
『松島』以下の連合艦隊本隊も砲撃を開始し、両軍が入り乱れての砲撃戦が実に二時間半にも渡り展開された。
戦闘は概ね速力に勝る我が方が二手に分かれて、自慢の速射砲を浴びせ続けるという展開であった様だ。
清国北洋水師が誇った巨艦『定遠』は大火災を起こし、『鎮遠』は艦橋構造物を全て薙ぎたおされた。他の敵艦も火災を起こしたり、沈没したりと清国艦隊は壊滅状態に陥った。

しかし我が方も無傷ではいられない。『松島』には30センチ砲弾が2発命中し、百名近い死傷者が出た。その時に甲板へ降りた副長に対し重傷を負った三浦寅次郎三等水兵が「定遠はまだ沈みませんか」と、苦しい息で聞いた。副長が「定遠はもはや戦闘不能だ」と答えると、三浦三等水兵は満足の笑みを浮かべて絶命したという。
この『松島』の被害をはじめ、低速の故にそれをカバーしょうと敵艦隊の真っただ中を突っ走った『比叡』と『扶桑』は大被害をこうむった。また『西京丸』と護衛艦『赤城』は敵艦隊の近くで孤立し、これもまた甚大な被害を受けた。
だが、我が方で沈没した艦は遂に無かった。

敗残の清国艦隊は旅順へ逃げ込み、それきり出て来ることは無かった。陸軍が旅順を陥落させると、清国艦艇は威海衛まで落ち延びる。
戦闘力は奪ったが東洋最大の二隻(定遠と鎮遠)が生きていては、安心できない。そこで我が海軍の新兵器(魚雷)を抱いた水雷艇隊が出動し、これに止めを刺した。明治二十八年二月五日のことであった。
50t前後の小艦艇である水雷艇は、果敢に威海衛港内へ突入し100メートル以内に肉薄して魚雷を放った。第一目標とされた『定遠』は大破して着底し、自沈処分された。
ここに至って、東洋一の威容を誇った清国北洋水師は壊滅した。
by levin-ae-111 | 2013-11-27 21:30 | Comments(0)