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by levin-ae-111
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日本海海戦Ⅰ(三国干渉)

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 黄海海戦で東洋一の強大な清国艦隊に勝利した日本は、陸軍の進撃も重なり清国に戦勝した。我が国は当時の戦勝国の常識として、明治二十八年に下関で行われた講和条約にて清国に金銭的な賠償や領土割譲その他の要求を突きつけた。
その結果として朝鮮半島の独立、遼東半島、台湾の割譲と沙市、重慶や蘇州、杭州の開市と開港や揚子江の航行権、賠償金2億両の支払などを清国に認めさせた。
日本としては多くの犠牲と血の滲むような努力が結実した結果であったが、ここで思わぬ横やりが入った。

 ドイツ、フランス、ロシアがアジアの平和と安定を謳い文句に、遼東半島の領有権放棄を強く求めて来たのである。それは満州への進出を目論んでいたロシアを、ドイツが焚きつけてフランスが支持するという構図であった。
強く求めたと言っても、野蛮な当時のことであるから、実際にロシアやドイツの艦船が日本の周辺に姿を現して示威行動を繰り返すという強硬なものだ。
 当時のドイツ、フランス、ロシアといえば英国に次ぐ世界第二位から四位の海軍大国である。そんな大国を敵に回せば、如何に清国艦隊に勝利したとはいえ、誕生して間もない聯合艦隊が抗える相手ではない。
結局はこれに従わざるを得ず、日本は泣く泣く遼東半島の領有権を放棄した。

 しかも清国に返還した遼東半島の旅順と大連を、僅か三年後にロシアが租借地として実質的に支配するに至る。屈辱的な遼東半島の放棄に加え、この汚いロシアの遣り口に日本国民と政府の憤慨は大変なものであったという。
それは単にプライドや金銭的な問題でなく、それらを勝ち取る為に流された無数の陸海軍の兵士の血と汗、捧げられた犠牲者の生命を無にするものであるからだ。
そればかりか、これ以上ロシアの横暴を許せば、何れ日本国の独立そのものが危うくなるという可能性が大いにあった。
日本はこの屈辱を何としても晴らそうと、官民が一体と成って軍備の増強に突き進むことになるのである。

 苦しい台所を苦心して遣り繰りし、日本は課題であった海軍力の増強に努めるのである。
ロシアは事を構えるには、清国の時の様に付け焼刃では如何ともし難い強大な相手だ。当時のロシアはバルト海、黒海、太平洋にそれぞれに大艦隊を配備していた。バルト海艦隊だけでも主力艦の数でも聯合艦隊のそれを遥かに上回っていた。
戦艦の数は合計で二十隻に及び、対する我が国は僅かに二隻しか保有していなかった。
清国艦隊の誇った7000t級の『鎮遠』は我が国が保有する事に成ったが、既に第一線級の戦艦とは呼べなかった。
ロシアにとってみれば主力のバルト海艦隊(バルチック艦隊)を投入せずとも、ウラジオストックと旅順にいる極東艦隊だけでも十分に日本艦隊を凌駕する戦力があった。

 日本が具体的に目指したのは、山本権兵衛少将の論になる『六四艦隊』の構築である。
『六四艦隊』とは戦艦六隻と巡洋艦四隻から成る艦隊構想であった。明治三十年に就航した『八島』『富士』の二戦艦に続いて、『敷島』『朝日』『初瀬』『三笠』の四隻が新たに英国に発注された。これらの艦は一等戦艦であり、当時としては一線級の装備と速度を持つものであった。
当時の一等戦艦とは、主砲に30センチ砲を4門、副砲に15センチ砲を多数装備し、速力も平均で18ノット(時速33.3キロ)以上が出せるものが主流だった。
日本は更に1万トンクラスの装甲巡洋艦(後の重巡)を、ドイツやフランスに発注する。加えて既製品として建造されていた艦や、他国の発注した艦までも交渉して購入するという死にもの狂いの艦隊補強が続いた。
その結果『六四艦隊』が『六六艦隊』となり、最終的に『六八艦隊』にまで拡大された。
こうした日本の軍備拡張を背景にして、ロシアの覇権拡大を阻止したい英国の思惑が重なって明治三十五年(1902)に日英同盟が締結された。
この同盟締結が後にバルト艦隊との日本海での決選に大きな影響を及ぼす事になる。

*1ノット=1.852キロ
*写真は戦艦『三笠』
by levin-ae-111 | 2013-12-08 14:21 | Comments(0)