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by levin-ae-111
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日本海海戦Ⅱ(開戦)

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 我が国の懸命な艦隊強化を見た英国は、ロシアの覇権主義を止めたいという一点で思惑の一致を見たのか我が国との同盟締結を行った。この日英同盟の内容は日英のどちらかでも複数の他国と紛争状態に入ったらならば、同盟国として一方もこれに参戦する義務を負うという内容を含んでいた。
これが後にロシアと戦争状態に入った我が国にとって有利に働いた。この同盟がロシアと共にアジアの利権を拡大したいドイツとフランスの参戦を抑止し、我が国は一人ロシアのみを見ていれば良かったのである。
圧倒的な海軍力を持つ英国に、流石のドイツもフランスも相手が悪いとばかりに沈黙するしかなかったのだ。

 だがロシアの戦艦保有数は20隻、我が方は必至で揃えて6隻であり、相変わらず彼我の戦力差は天地のひらきがある。国家予算もロシアは我が国の8倍であり、これでは勝負になる訳がない。加えて更に威圧する様にロシアは極東艦隊に2隻の戦艦を増派すると発表した。また朝鮮国境でも我が国の抗議にも関わらず、撤収させるどころか兵力を増強するという暴挙に出ていた。
国力の差は如何にもし難いが、このまま対決を先延ばしにしては貧しい我が国は闘う前に疲弊し、戦争どころではなくなってしまう。余談だがこの状況は、後の太平洋戦争に引き摺り込まれた時と酷似している。
戦機の到来を予測した我が海軍は、明治三十六年十二月に日清戦争に倣って再び『聯合艦隊』を編成する。司令長官は東郷平八郎大将である。

 それ以後も日露の交渉は続けられたが、結局は決裂し明治三十七年二月六日を以て国交は断絶した。その翌々日の二月八日に仁川上陸を企図した我が国陸軍に、ロシア巡洋艦が放った警告射撃を号砲となり両国は戦闘状態に入った。
陸上戦闘は熾烈なものだったが、やはり戦争の帰趨は艦隊決戦にあった。ロシア極東艦隊はウラジオストックと旅順に拠点を置き、日本海軍など一捻りできる戦力を有しているはずだったが、何故か出て来ない。
その訳は今や我が国の戦艦も6隻を数え、戦力的にも拮抗していたことが挙げられよう。加えて我が国は新鋭艦が多いのに対し、歴史あるロシア艦隊の艦船は古いものが多く含まれていたからだ。

 我が国としてはロシアが全力で攻めて来るとなれば勝ち目はない。そこで当然の常識として、まず極東艦隊を撃破して相手の戦力を少しでも削いでおきたい。
そこで積極的な作戦に出ざるを得ない。二月九日の夜陰に乗じて我が駆逐艦隊が旅順港へ忍び入り、雷撃を敢行した。戦果は戦艦2隻と巡洋艦1隻に被害を与え、内2隻を座礁させる事に成功した。しかし、何故かロシア艦隊は逃げ回るばかりである。
我が艦隊に追われ中立港の仁川に逃げ込んだロシア艦2隻は、追撃した我が方の港内では他国の船に迷惑が掛かる、港外へ出て堂々と勝負せよ!との呼びかけに応じたが、2隻ともに撃沈されている。そうこうして、今やロシア極東艦隊の主力艦は既に半数にまで撃ち減らされた。だが、その後から敵は旅順に立てこもり出て来なくなった。増援を待って打って出る作戦に違いないが、余りに出て来ないので我が方は逆に旅順港の出入り口を塞ぐことを考えた。

 もしここでバルト海艦隊でも来援すれば、我が方は完全に万事休すだ。おまけに極東艦隊の新司令官に、あの海上戦略論の大家であるマカロフが着任するという。
マカロフはアメリカのマハンと並ぶ戦略論の権威で、その論文は当時の我が国海軍の教科書にも用いられていたほどだ。
我が方の焦りは募ったが、マカロフにとっても部下たちの士気の低さは目に余るものがあった。更に駆逐艦隊が久々に港外に出て、日本艦隊に挑んではみたものの、返り討ちに遭い士気は更に下がった。
マカロフは自らか戦艦『ペトロパブロウスク』に堂々と将旗を掲げ、12隻の味方を引き連れて打って出た。包囲する我が艦隊に砲弾を浴びせながら前進したが、その刹那に巨大な爆発が『ペトロパブロウスク』を包み、あっと言う間にマカロフ司令官ごと海に呑みまれてしまった。我が方が仕掛けた機雷に接触した結果だったが、これを最後に生き残りの敵艦は完全に旅順に閉じこもってしまった。旅順港は強力な要塞砲で守備されており、陥落が困難な港であった。

かくして『旅順港閉塞作戦』が立案された。古い船を港の出入り口に沈め、出入り出来なくするという作戦である。閉塞作戦は三度に渡って行われたが、結局は失敗に終わった。
沈み行く閉塞船の中で、行方不明となった部下を探して叫ぶ広瀬中佐のエピソードは国民の涙を誘った。
 八月に入ると旅順に居たロシア艦隊は、皇帝の命でウラジオストックへの脱出を図る。追撃した我が艦隊は、見事にこの艦隊の指令艦の艦橋を粉砕し、敵の指揮系統は混乱した。
結局ロシア艦隊は再び旅順港へ逃げ込み、今度こそ動かなくなった。
乃木希典大将の指揮する我が陸軍部隊が203高地を奪取し、湾内に砲撃を加え残ったロシア極東艦隊の残存艦艇は破壊された。
 更にウラジオストックを根城に日本海で、無防備な商船ばかりを襲撃して我が国の怒りを買っていた巡洋艦隊も捕捉され撃滅された。ここにロシア極東艦隊は、ほぼ完全に壊滅した。
Commented at 2013-12-11 00:13
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by levin-ae-111 at 2013-12-11 05:26
鍵コメさん
日本は明治以来、否それ以前から常に西欧列強や中国の脅威に
晒されて来たのですね。その多くが自衛的な要因であったと思って
います。我が国は植民地支配ではなく、領土として占領した地域を
経営しようとしました。台湾や朝鮮半島では、インフラ整備、社会制度
の整備、文化的な再復興をしようとしました。
日ロ戦争での勝利も、西欧列強に支配されていたアジアの人々に
大いなる希望を与えたものだと思います。
by levin-ae-111 | 2013-12-10 20:21 | Comments(2)