戦艦長門最後の闘い
2014年 03月 15日
闘いといっても敵と戦火を交えることはない。しかし、それでも厳しいものであった。
残存艦艇の主な任務は二つあり、一つは太平洋各地に散らばっている軍人や軍属、一般国民などの引き揚げである。いま一つは戦争中に連合国によってばら撒かれた機雷の廃除で、掃海と呼ばれる作業である。危険な機雷の除去作業では、事故が発生し死者も出ている。
連合艦隊の艦艇の多くは解体処分、あるいは戦利品として連合国に引き渡された。以下の表によれば135隻が連合国に引き渡されている。
それも当然のことで長門は、大和が登場するまで長く連合艦隊総旗艦を務めていた。
長門が最後に実戦出撃したのは昭和19年10月22日のことで、大和、武蔵と共に戦艦部隊の中心としての出撃だった。
レイテ湾への殴り込みを企図した作戦『捷一号作戦』への参加の為だったが、その折に米海軍軽空母部隊と遭遇し、砲撃を行った。これが竣工して25年目の長門にとって、初の実戦であった。しかし連合艦隊は多大な犠牲を払いながら、結局はレイテ湾への突入を断念して引き返している。
虚しく横須賀へ帰港した長門だったが、燃料不足から動けず岸壁に係留されて虚しく防空砲台として使われるのが精々だった。
終戦後、アメリカ兵の手によってマーシャル諸島のビキニ環礁へと運ばれた。目的は原爆実験の的とする為である。
長門はアメリカやドイツ・日本から集められた70隻ほどの艦艇の一隻として、その時を迎えた。アメリカ軍には、空母機動部隊への原爆攻撃の効果を検証する目的があった。
空母には艦載機も載せ、周囲には戦艦や巡洋艦、駆逐艦、潜水艦その他の小艦艇まで揃えられていた。
最初の実験は7月1日だった。B29による原爆投下で、空中で炸裂した原爆の艦隊に与えるダメージを知る為だった。長門は爆心から1000メートルほどの位置にあったが、この時の爆発では長門は殆ど無傷だったと伝わっている。
2度目は7月25日に行われ、今度は水中で爆発させる実験だった。爆心から400メートルの位置に在った米軍の潜水艦は瞬時に沈没した。また水中に吊るされていた(潜航状態を再現していた)潜水艦群は、外郭が全てめくれ上がり無残な姿になった。
またしても1000メートルの距離にあった長門は、僅かに左に傾斜しただけで健在だった。
長門は左舷艦尾に僅かな亀裂が入った程度の損傷だった。それも乗員がいれば直ちに応急修理できる程度の損傷だったが、しかしその僅かな浸水は止まらなかった。
米軍は資料として残す為に長門を補修しようとしたが、放射能汚染の為に作業は進まなかった。7月29日には浮いているのを目撃されたが、30日の夜明けにその姿は消えていた。
戦艦長門は二度の核兵器の衝撃に耐え、そして最後は誰からも看取られること無く静かにその生涯を閉じたのである。
戦艦『長門』
公試排水量:4万3580t 速 力 :25.0kt
水線長 :221.07m 水線幅 :32.46m
機関出力 :8万2000馬力 乗員数 :1368名