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by levin-ae-111
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ダンスに懸ける青春(タイムスクープハンターより)

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 今回は大正時代に庶民の間に普及した社交ダンスに懸ける青年たちの物語だ。

取材対象は自主的にダンスクラブを立ち上げた6人の男女が主役であった。6人は巷に普及し始めた社交ダンスに魅せられ、集まって踊っていた。

世間一般にはまだ西洋文化に懐疑的な人が多く、ダンスのごとき男女が身体を触れ合うものは忌み嫌われていた時代である。

日本の社交ダンスの始まりは、開国と共に明治政府が西洋人をもてなす目的で建てた『鹿鳴館』に端を発している。

 

 鹿鳴館は政府が推進した西洋化の一環として建設され、外国人向けの迎賓館としての役割を担っていた。鹿鳴館では連日の様に華族や元上級武士たちが集い、西洋風のパーティや舞踏会などが盛んに催されたという。

その鹿鳴館で踊られた社交ダンスが一般庶民に普及したのは大正時代で、多数のクラブが設立され若者たちを中心にブームとなっていた。

物語に登場する若者たち(みさを、花子、かほる(かおる)、朔太郎、武雄、正一)は、親には内緒で使われていない武雄の祖父の道場に集っていた。

若者たちが内緒にするのは、まだまだダンスは破廉恥なものという認識が世間一般に存在し、彼らの両親や身内も例外ではなかったからだ。

 

 楽しく踊る青年たちだったが、突然にみさをの上司と武雄の母親が怒りも露わにして現れる。みさをは教師だったが、結局は教師を辞めてしまった。

十日後・・・練習場所もなく青年たちの苦悩は続いていたが、どうにか身内を説得することに成功していた。問題は踊る場所の確保が出来ないことだった。

場所を探すが無料で借りられるホールが有る筈もなく、青年たちは途方に暮れる。

しかし思わぬ救いの手が差し伸べられた。武雄の古い知り合いの画家が、当分の間留守にするからアトリエを無料で使わせてくれるという。大喜びする青年たち、だが、その夢を打ち砕く関東大震災が数分後に迫っていた。澤嶋は止む無く、本部指示に従い帰還する。

タイムトラベラーとしては、間近に迫った大震災を青年たちに告げるわけには行かなかったからだ。

 

震災から3年後の時点へ青年たちの行方を捜して、リポーターの澤嶋が再び大正時代の東京へ跳ぶ。そこでダンス教室に集うみさを、朔太郎、花子、正一と再会できた。

しかし武雄とかほるの姿が無い。残念なことに武雄は震災で亡くなり、かほるは生死不明となっていた。

そこへかほるを大阪のダンスホールで見かけたとの情報が入る。そこはタクシーダンスホールと呼ばれるチケット制のホールで、客はチケットを購入してダンスホールの女性と踊るのだ。だがホールはダンスだけでなく、女性に男性客を接待させる店も多かった。

かほるが務める店もそんな店だ。

4人はすぐに大阪に行きどうにか、かほるを連れ出そうとする。踊りながらかほるに逃げようと告げる朔太郎だったが、借金があるかほるは行けないという。

無理にでも連れ出そうとする朔太郎とかほるが言い争い、店の従業員たちが集まって来た。

興奮する朔太郎、喧嘩の一歩手前まで行くが、そこへ警察官が現れ、全員を連行しようとする。折しも大正天皇が崩御され、それを口実にいかがわしいタクシーダンスホールを取り締まろうと警察の捜査が入ったのだ。

かほるを連れて逃げだした青年たちは、どうにか逃げ延びた。路地をまがった先には、みさをと花子が待っていた。

数日後、武雄は欠けたが再び東京で大好きなダンスを踊る青年たちの姿があった。震災後に頑張った彼らは、自分たちのダンス教習所を立ち上げていたのだ。社交ダンスは取締法案が議会に提出されるほど怪しいものという認識がまだ有ったが、その法案も審議日数が不足し廃案に成った。社交ダンスはその後に大ブームを迎え、青年たちの教習所も繁盛した。

かほるは教習所で講師として働き、借金を完済した。

 

いつの時代にも、何をするにしても先駆けとなる人々は無用とも思える苦労を強いられる。

世の人々の偏見と無知が、手かせ足かせに成るからだ。このダンス様に世間一般のことでなくとも、個人的な事柄にも偏見とか思い込みが入り込む。

私自身にしても、物事の見方に偏見が無いとは絶対に言い切れない。だが、それでも他人のする事や世の中の現象に対して、偏った見方をしていないか可能な限りチェックを怠らない様に心掛けている。

 

ウイキペディアより

計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。

それまでは国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは港区三田蜂須賀侯爵邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)の地)に決まり、1880(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人ジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。

煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バービリヤードも設備されていた。


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by levin-ae-111 | 2014-04-20 19:46 | Comments(0)