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by levin-ae-111
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謎の九鬼文-7-

 さて九鬼文書を神代文字から翻訳したのは藤原不比等とされている。現代風に言えば超エリート官僚であった不比等が、当時の流行であった仏教思想ではなく古来に近い表現をせざるを得ない部分が九鬼文書には存在した。

それは人間以外の生き物を『畜生』と表現する仏教用語を用いずに、恐らくは原文の意味に近いと思われる『群生』と表現していることである。

この『群生』という表現には、人間と他の生き物とを平等に扱っているニュアンスがある。

この部分は縄文より今日までも脈々と日本人に受け継がれている、いわば私たちの精神的な骨格の様なものだと私は感じる。


姿形、生活は異なるけれども、それは領域を住み分けているに過ぎない。そのことは人間が他の生き物を凌駕して、特段に優れた生き物とする考えの根拠にはならない。

流石の(恐らくは)合理主義者であったろう藤原不比等も、古い時代より培われてきた真理を捻じ曲げることに躊躇いがあったのだろう。その躊躇いが不比等をして『畜生』ではなく『群生』と訳させたのではあるまいか

 

この考え方は神と人間の関係にも生きている。縄文の神は人の祖先であり、自然現象であり、他の生き物たちであった。従って自然との調和や共存といった考えが自ずと発生するのであり、西洋のキリスト教のごとく神と人間との断絶は存在しない。

確かに西洋的な感性は現代に繋がる科学文明を発生させ、私たちに多くの恩恵をもたらしてきた。しかしその陰で多くの自然を犠牲にし、今では自分たち自身の存在さえも危うくしている。

これはそのままキリスト教的な神と人間の断絶を基本に掲げる文明・文化の限界を示しているのかも知れない。

 全ての生き物は平等であり、ただ領域を住み分けているだけだとする考え方は、それこそが縄文神道の本質なのだろう。一切の生命は分子レベルでは同一であるとする現代の生命科学の見解は、縄文神道を只のシャーマニズムとして割り切る現代的観点を否定する様に感じる。

また九鬼文書には予言的な要素もある。この宇宙の総合神とは造化三神と天神七代、地神五代に陰陽神を総称して『宇志採羅根真』(ウシトラノコンシン)である。これはまた日月星辰、三千世界、山川草木、人類禽獣を含め神羅万象の万物を創造大成される神のことである。

宇志採羅とは『艮』のことで九鬼神道によれば世界を東西に分け、その東半球の北東()の国を日本としている。この艮の国、すなわち日本にこそ全世界の創造大成を指名とする神、艮の根神=艮の金神が出るということになる。

元々は鬼門とされ忌み嫌われるこの方角が、最も聖なる神の出現する場所であるとする逆転の発想は九鬼文書の独壇場である。だが、この根拠は文書には示されていないらしい。


そこで大本教の出口王仁三郎によって唱えられた説、つまり悪神や邪神の陰謀によって根神が鬼門に封じ込められたという解釈が出てくる。王仁三郎によれば、この封印された根神
=金神は国常立尊(クニトコタチノミコト)であり、カンハヤスサノオノミコトであるとしている。さらにこの国祖神である国常立尊がやがてメシアとして再現し、世の『立て替え・立て直し』の先頭に立つのである。

この出口王仁三郎が唱えた説から、岡本天明が自動書記したとされる『日月神事』へと繋がって行くのである。

この様に『九鬼文書』は卑弥呼の時代から近代の出口王仁三郎、岡本天明に、そして彼らの説に興味を持つ現代人まで、形と人を変え受け継がれているのである。


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Commented by levin-ae-111 at 2014-06-29 13:18
太字の部分は、特に強く主張したい訳ではありません。
どういう訳か、他と同じ文字に成らないだけです。
ブログ筆者より。
by levin-ae-111 | 2014-06-29 13:09 | Comments(1)