人気ブログランキング | 話題のタグを見る

身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

宮下文書の謎-1-

宮下文書とは、別名を『富士文書』とも『徐福文書』とも言われる古文書で、やはり我が国の成り立ちを伝えている。
富士文書と呼ばれる所以は、高天原にも比定される富士山麓に存在したとされる王朝の歴史を伝えているからだ。更に徐福文書とも呼ばれる理由は、始皇帝の命を受けて来日した徐福により神代文字から漢字へと変換されたからだと伝わる。
徐福は始皇帝の命令で、東海の果てに在るという蓬莱山の不死の秘薬を求めて大船団を率いて出帆した。

伝説によればその時に徐福が率いたのは大勢の若い男女と、機織りその他の技術者たちであったとされる。しかもそれだけでなく、膨大な財宝をも所持していたといわれる。
その船団の数は85隻と伝わり、紀州熊野に到着したのが73年という。そこから秘薬を求めて蓬莱山(富士山)麓へと進んだが、結局は秦に帰らずそこに定住して養蚕や機織りの技術を教えて平和に生活していた。
ある時に阿祖山太神宮の神官から神代文字で記された古代の記録を見せられて驚き、その散逸を恐れた徐福は漢字で筆録したものが宮下文書の元になったとされる。

徐福が熊野に漂着したか否かは確かめる術もないが、徐福の墓とされる祠は新宮市と冨士山麓に存在している。先述したように、その真偽を確かめる術はない。だが宮下文書の伝える日本人の足跡は、他の古文書に比べてよりリアルに感じられる。
もしかしたら徐福その人でなくとも、徐福に比定される程に教養と技術を持った中国系の一団が実際に存在し、冨士山麓に伝わる神代文字で記された伝承を漢字に翻訳した可能性がある。
神代文字で記されていた伝承は『富士高天原王朝』の盛衰を記録したもので、やはり天之世七代、天之御中世十五代、高天原世天神七代、豊阿始原世地神五代、不合朝五十一代、神武朝の各代の神統譜と皇統譜、更に富士山の噴火記録などから成っているのだという。
最も注目される記述は、日本民族の原郷を古代ユーラシア大陸の中央部としていて、その原日本人が陸路と海路(陸・海のシルクロード)とに分かれて日本列島へ辿り着き、豊阿始原を開いたという記述であろう。

ずっと以前に何かの本で読んだと記憶しているが、日本の古称ヤマトとはそのユーラシア大陸の中央付近に存在した地名であるとあった。
陸と海のシルクロードを経て日本に到着した原日本人は、豊阿始原を開き、幾度もの内乱や外国からの侵略など王朝の交替を経て、神武朝が成立することに成ったのだろう。
話しは逸れるが、ある研究者の指摘では『秦』の歴史とは、ひとつの国を指しているのではない。有体に言えば真実の『秦』とは、アケメネス朝ペルシャを指すものであるという。
中国は古代には大帝国ペルシャの植民地であり、ペルシャを圧倒したアレクサンダーの殖民地でもあったとする研究も存在するらしい。
そういえば、以前に読んだペルシャ系アメリカ人の著作でも日本とペルシャの不思議な共通点に感激し、信じていなかった著者の父親の話しを実感したとあった。やはり、秦はペルシャの植民地であったのだろうか。
そして始皇帝の建てた『秦』とはアレクサンダー大王のグレゴ・バクトリアの植民地であった『シナ』のことであるらしい。
そうであれば、始皇帝とはグレゴ・バクトリアの将軍か植民地の総督といった立場にあった人物かも知れない。ならば、ユダヤ系の人物であったとしても不思議ではなく、そこから来た徐福一行が富士山麓に国を開いたとすれば、またまた古代ユダヤやペルシャなどと日本の不思議な関わりが浮かびあがる。

宮下文書の謎-1-_a0160407_23585216.jpg
 
by levin-ae-111 | 2014-07-19 23:59 | Comments(0)