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by levin-ae-111
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宮下文書の謎-2-

宮下文書の謎-2-_a0160407_7361611.jpg
 
                徐福の石像

 徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の妙薬を求めて85隻もの大船団を仕立て、童男・童女500人と往復30年間の諸経費に金・銀・銅・鉄・珠玉や衣食住の専門家集団を乗せて秦を出たのは司馬遷の『史記』などに記してあるので恐らくは確かなことだろう。
徐福の一行が山東省を出発したのは始皇帝三年六月というから、遅くてもその年の秋には日本に到着していたと予測される。宮下文書では同年十月に熊野に着いたとしている。
その年は紀元前244年、日本では弥生時代の前期に当たると思われる。
そうだといれば、徐福一行がもたらした財宝や革新的な(当時としては)技術や技能が、弥生文化に何某かの影響を与えた可能性もある。

『宮下文書』の研究者である鈴木貞一氏、文書の時代区分の「天之世七代」を第一神朝、「天之御中世五一代」を第二神朝と呼んでいる。この一~二神朝が日本列島ではなくユーラシア大陸の中央部に存在していたとする主張は、宮下文書が他の古史古伝と異なる点である。
その時代はいつであり、具体的な場所はどこであったのか。
文書では第一神朝は紀元前4400年に始まり、820年間続いた。第二神朝は約1850年間に渡って続いたのだという。神々はこの合計2670年の間、阿間都州(アマツクニ)に在った。
この阿間州は中央アジアのアラル海に注ぐアムダリア、シルダリアの2大河川の上流の高原のことを指すらしい。つまりパミール高原の北西部あたりだろうか。

しかしながら、この年代記を信じる訳にはいかない。何故ならばこの年代記にはウガヤ朝(七十六代2741年)もの年月が付け加えられているからだ。仮にこれを一代限りとしてみても、第一神朝の始まりが紀元前1700年となるのは良いとしても、第二神朝が1850年続いたというのだから紀元後900年代に渡来して冨士高天原王朝が成立した事になり、お話しに成らない。つまりBC1700に第一神朝が始まり820年続いた、この神朝の終わりがBC880年となり、それに第二神朝の存続期間1850年を足すと、冨士高天原王朝が成立した時代はAC970年となり平安時代に成ってしまうので明らかに間違いである。
現実的に人の寿命を考慮して、神朝(第一、第二)の二十二代の神皇を一代40年とすれば、この時代は880年となり、紀元前900年前後に冨士高天原王朝が成立したことになる。
そうであれば豊阿始原朝が約500年、ウガヤ朝を一代限り(約40年)と計算すれば、第二神朝の終わりから約540年となり紀元前360年前後となる。そしてウガヤ朝の成立はおおよそ弥生時代の始まり(約2300~2400年前とされている)に一致する。
という具合に宮下文書の年代記を強引に現実的と思しき年代に改ざんしてみても、結局のところ、この文書の年代記をデタラメとは断じ切れない。
ただ一つだけ確かなことは、記述してある他の内容はさて置き、古史古伝の年代記を鵜呑みには出来ないという事実だけである。

宮下文書の謎-2-_a0160407_7363460.jpg

                 始皇帝の肖像
by levin-ae-111 | 2014-07-21 07:40 | Comments(0)