身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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激戦地『ペリリュー島』NHKスペシャルより

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 パラオ共和国の小島ペリリューは、約70年前にその後の米軍の作戦に大きな影響を与える激闘が繰り広げられた場所です。
ペリリューは日本から約3200キロの南方、レイテ島の東に浮かぶ、南北約9キロ、東西約3キロのサンゴ礁の小島です。この小島が悲惨な殺し合いの舞台になったのは、米軍のレイテ進行作戦の拠点として位置づけられたからです。
当時ペリリューには1600メートルの滑走路を持つ飛行場が建設されており、そこからレイテ島への航空攻撃が可能だったからです。その飛行場を手中にするための作戦が、ペリリュー上陸作戦でした。

米軍の意図を察知した日本軍は、満州から関東軍の精鋭部隊をいち早くペリリューに送り込んでいました。中川州男(になかがわくにお)大佐の率いる約1万の陸軍歩兵第2連隊がそれでした。
この時、日本軍は敵陣に突撃して華々しく散るという玉砕を禁じ、徹底抗戦して相手に損害を与え続ける作戦に転じていました。中川大佐たちはその方針に基づき、サンゴ礁の島のあちこちにトンネルを掘り、戦いに備えていたのです。
そこへやって来たのが米海兵隊第一師団、17000名の将兵でした。師団長はウイリアム・ルパータス少将で、当時の第一師団は海兵隊で最も優れた部隊として名を馳せていました。
ルパータス少将と師団は当初、3日で島を占領すると自信満々でしたが、その彼らも日本軍の徹底した持久戦により手酷い出血を強いられることになりました。

海兵隊史上最悪の闘い、それがペリリユー島での歩兵第2連隊との死闘でした。60パーセントもの将兵の死傷率は酷い損害ですが、対する日本軍の生き残りは僅かに50数名とも30数名とも言われますから、戦いの激しさ悲惨さが伺えます。
日本軍の主な兵力は戦車でしたが、これが米軍のシャーマン戦車には通用せず、緒戦で全滅しました。その後は洞窟に立てこもってのゲリラ戦へと闘いは移行しますが、最後は島の全域を米軍に支配され、部隊本部の壕で中川大佐は自決しました。

 当時この闘いに参加した日米の将兵たちは、何れも90歳を越えもうご存命の方々も極めて少なくなりました。その方々の証言は、非常な重さを以て戦闘の悲惨さを伝えています。
華々しい兵士の活躍を撮影するために、米軍は18名のカメラマンを第一師団に配属していました。しかし彼らのカメラが捉えたのは、双方の兵士たちの死体でした。
茂みに潜み狙撃する日本兵により次々と倒れる米兵、救出に向かった者もまた撃たれる、そんな場面や仲間の死体を回収する場面、戦意を失って無抵抗の日本兵を打ち殺す場面などカメラは正に地獄の様相を記録しています。
米軍がこの闘いで初めて投入したのが火炎放射器で、その炎の射程は130メートルにも及びました。そして1000℃にも達する高熱を放つ爆弾『ナパーム弾』の使用も、この島が最初だったそうです。この両方とも後の硫黄島や沖縄戦に使用され、ナパーム弾は本土空襲の為の焼夷弾へと繋がっていきます。

 睡眠も儘ならない戦場では、精神に異常をきたす兵士も続出し、日米双方とも仲間の手で処分された人もいました。元米兵の証言では、たこつぼを掘り二人一組で入り、一人が見張り一人が休むという体制でした。しかし疲労が激しい戦場のこと、二人とも眠ってしまうことも度々でした。二人とも眠ってしまった壕に、日本兵が侵入し一人は死亡、一人は重傷ということがあったと言います。その壕は証言者の壕から3メートルも離れていませんでした。狭い島で戦線は入り乱れ、もはや前線が何処なのかも不明という状態でした。
40℃にも達する気温で、放置された死体は直ぐに腐敗し、倍に膨らみそれに無数のハエがたかり島は腐敗臭とハエの大群に満ちていました。
極限の状況で日米双方の兵士たちは、闘い続けました。もう闘いの意味も分からず、互いに憎悪だけの殺し合いが続いたのです。

生き残った日本軍の兵士は「サソリとサソリを瓶の中に入れて、蓋をした様なものだった。相手を殺すしかない、そういう状況だった」という意味のことを語っておられます。
そういう島での兵士たちの地獄を他所に、米軍はペリリュー島を無視して直接レイテ島への上陸を開始します。マッカーサー将軍が上陸し、レイテは米軍の支配下に入りましたが、何故かペリリュー島の作戦は続行されました。正確には続行というより、無視されたのです。
日本軍を追い詰め、失っていた人間性が回復し始めると、米軍兵士たちは別の敵と闘わねば成りませんでした。
ある兵士は襲い掛かって来た日本兵を殺しました。その死体から見つけたのは、両親と幼い妹、そして自分が殺した兵士が写った家族写真でした。
それを見た米兵は、自分のしたことの罪深さに衝撃を受け、頭を抱えて暫くはその場を動けなかったのでした。「俺は何てことをしてしまったのだ・・・」そういう後悔の念や悲惨な闘いの様子は、生き残った兵士たちの胸に今も刻まれています。
第一師団のカメラマンの内で唯一の存命者は、悲惨な戦場の様子を今でも夢に見るそうです。彼にとって時間は止まったままで、あのペリリュー島に居た頃のままです。

 人生で最も良い若い時期を戦争で狂わされた人々、地獄の前線に駆り出された青年たちにとって勝者は存在しません。存在するとすれば、殺戮を好む精神的異常者だけです。
平和な南の楽園であるサンゴ礁の島で戦われた一つの攻防戦は日米双方に大きな傷を残して終結しました。
また緑が豊だった南海の小島は、丸裸になり真っ黒に炭化した木々と、むき出しの岩だけになってしまいました。
 
今日、太平洋戦争や支那事変を不当な侵略戦争だとか、正統な防衛戦争だとか様々な議論があります。そういった議論は大切ではあるでしょうが、まずは戦争の悲惨さを認識する必要があるでしょう。
同じNHKスペシャルで、陸上自衛隊幹部候補生学校の若者たちの生活も取り上げられています。集団的自衛権の閣議決定に関連しての取材でしたが、軍事教練に励む現代の若者たちも恐らくは想像できないであろう惨劇が先の大戦では至る所で繰り広げられたのです。
ヨーロッパ、アフリカ、ペリリュー、レイテ、ガダルカナル、インドシナ、中国大陸、アリューシャン列島、硫黄島、沖縄などあらゆる場所で戦闘が行われ、全世界では何千万単位の犠牲者が出たのです。
また一方的な虐殺は広島、長崎の原子爆弾の投下を筆頭に、東京大空襲、名古屋、大阪、富山や福井といった中小都市への無差別爆撃などがさしたる意味も無く行われました。

陸上自衛隊幹部候補生学校の校長は、入校式において次の言葉を新入生たちに送っています。それは『大いなる精神は静かに忍耐する』という、自衛隊発足以来の先輩たちが拠り所にしたこの言葉です。
また元佐世保地方総監は自分たちの任務に関して、「究極的にはこの国を二度と戦禍に置かないという強い意志を以てやっていく事だと思う。やれば必ず勝つ、力を持っていざと成れば戦う覚悟を以て、でも戦わない。そういうことが自衛隊が今後も達成すべきことだと思っています」とコメントしています。
中国が挑発的な態度を強めていますが、軽々に先の大戦で無数の人々が、若者たちがその身を捧げて築いた現在の平和を損なってはなりません。
それには、大いなる精神で静かに忍耐し、やれば絶対に勝利する力を持って、でも戦わない。
それが今日の事態に対する適切な心構えであり、現実的な対応であると私も考えます。
戦争で泣くのは敵も味方も庶民ばかりです。戦禍に苦しむのも力の無い庶民です。私たちの曽祖父や祖父、曾祖母や祖母の時代、戦争という恐ろしい殺し合いが有ったのだという事実を決して忘れてはなりません。
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by levin-ae-111 | 2014-08-14 12:23 | Comments(0)