空母運用の現実-3-
2014年 11月 09日
先に暖機運転は15分以上との証言を挙げたが、本来はどの程度の時間が望ましかったのだろうか。中島飛行機の技師が若い工員向けに著した『航空発動機入門』には、暖機は30分以上を掛けるべきだとあったらしい。
初めの5分間を微速で回し、これを過ぎたらスロットルを徐々に開けて油温が50℃に達するまで半速運転を行う。それから最大に回し、そこから微速に戻して爆発に異常がないかを確認する。更に急加速を2、3度やってみて、バックファイアーが発生しなければ、ここまではOK。
次に巡航回転数で磁石発電機に切り替えて、電気系統の異常の有無を確認し、次に過給機も切り替えて点検する。最後に最大まで回し、馬力に変化が無いかを見る、とある。
非常に手間と時間が掛かるが、どうやらこれが正式な暖機運転の手順であるらしい。
更に現代の私たちには想像も出来ないが、エンジンを停止する場合にはクールダウンが必要であった。微速で回しながら、時間を掛けて冷やさないと、熱で電気系統が焼き切れてしまうというのだから堪らない。
戦争映画の様に恰好良く着陸を決めて、直ぐにエンジンを止めるという訳には行かなかったのだ。
勿論、これらの手順は零戦や99式艦爆、97式艦攻などにも例外なく必要であった。加えて限られた船内の格納庫で、陸上基地と同様のエンジン整備が必要だったのだから、当時の整備員たちはさぞ大変であっただろう。
零戦や艦爆、艦攻のエンジンは当時空冷式の星型エンジンであった。これらのエンジンは戦闘機で100時間、その他の機種で300時間使用すると、完全な分解整備が必要だった。
格納庫に係留されていた飛行機のエンジンは、放置しておくと倒立しているピストンのシリンダー内部にオイルが溜まった。これを知らずにエンジンを掛けると、クラッチの接合棒が曲がるなどの重大な故障が発生した。
これを防ぐには倒立箇所のプラグを外し、プロペラを逆回転させて(手動で)油をドレナージ(排出)せねば成らなかったという。
更にさらに、昭和10年頃の日本の軍用機は、出力が600~650馬力に達していたので、燃料のオクタン価を高める必要があった。その為に使用されたのが四エチル鉛を混合させた燃料だった。しかし、その副作用に非常に強い発錆作用があった。
一週間もエンジンを放置すれば、シリンダーやピストン、ピストンリングは言うに及ばず、油でコートされていない部分はすべて錆びたという。整備せずにそれ以上放置すれば、エンジンは完全に使い物に成らなくなったらしい。
ハワイ奇襲作戦に参加した人の日記によれば、単冠湾を出る日の午後に試運転を行ったとある。無論、四エチル鉛を使用した燃料を使ったエンジンの錆びつきを防ぐ為だろう。
尚、エンジンについては他にも問題を抱えていた。
それはパッキングの問題である。日本は耐油、耐熱性に優れた合成ゴムをついに創れず、皮や紙に油を沁み込ませたものを使用したらしい。従ってエンジンの油漏れが多く、一度飛んで帰って来ると飛行機は油まみれだった。その清掃に整備員は苦労したし、最悪の場合は飛行中に油が噴出することもあった。
また被覆電線にしても、日本は紙で被覆したものを使用していたが、アメリカは現在の様なビニール被覆であった。勿論、パッキングの類も現在と同様の合成ゴム製だった。
これらの細々とした事柄は、戦闘機の性能などを云々する以前の基礎工業力の問題である。
有体に言えば、整備以前に彼我の技術力に大きな差があり、整備関係者の血の滲む努力にも限界が有ったのだ。