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by levin-ae-111
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独特の山本ワールド

 久しぶりに山本建造氏(故人)の著書を読んでみました。考えてみれば私が三十代の頃に、飛騨の福来心理学研究所に赴いて、直接購入してきたものです。
研究所の庭で鉛筆を舐めながら著書の原稿を書いて居られた山本氏は、突然に訪ねた何処の誰とも分からない者に、気さくに様々な話しをして下さったのが昨日の事の様に懐かしく思い出されます。

 山本氏は精神統一を通じて病気治療をされ、心理学、心霊現象、超能力などの研究にも余念が無かったようです。そして、その感心は当然のごとく歴史にも及び、日本国の成り立ちについても神話時代から独特の見解を持っておられました。
例えば、古代日本では家の相続は末子が行っており、その他の子供たちは一人前に成ると家を出て独り立ちしていたのだといいます。

兄や姉が家を出て、最後に残った末子が家を継ぎ、年老いた両親の面倒を見ていた、しかし儒教の影響で、長子相続に変わったと説いています。
例えば神話にも末子相続が現れていると山本氏は主張しています。
山本説では日本人は日本に発生した民族であり、当初は日本列島で最も古い飛騨大陸(乗鞍岳とその周辺)で発生しました。丁度、北京原人が暮らしていた頃と同時代かと、山本氏は推定しています。
当時の気温は温暖であり、人々は平和に暮らしていたが気候の寒冷化と共に、北陸地方や東北地方へと移住して行きました。

 しかし寒冷化が更に進み大雪が北陸や東北に降る時代になると、安川原で大集会を開いて飛騨の中央政府をヤマノフモト(大和)に移動することを決めます。
その時代に九州では海幸族、山幸族などの外来民族が暴れ回っていました。そこで相続権を持つ末子ニニギ命は大和に行く前にこれを平定することにします。一方で長兄のニギハヤヒ命は先に大和入りして、大和を開拓してニニギを待つことになったのだといいます。

ニニギの時代でも末子相続は確立しており、第4子であったサヌ(神武)の大和相続は決定事項だったのです。次兄とすぐ上の兄(イナヒ命とミケヌマ命)は九州のヤマト国を守って九州に残ったのです。その子孫が卑弥呼で、魏に使いを出したのだそうです。
つまり九州も邪馬台国ではなくヤマト国で、新井白石がヤマトをヤマタイと読み間違っているのだと山本説はいいます。
この時、長兄のイツセ命が末子のサヌ命を守って九州を出発しますが、十数年にも及ぶ旅程の途中で戦死しています。

しかし長兄が一番下の弟を守って命を懸ける、そこには兄が偉いとか弟が下だとか、そういう可笑しな概念は有りません。後の時代には長子が家督を継ぐのが普通であり、バカな長子に有能な次男、三男との軋轢が存在しました。織田家などは破天荒な信長に対して、次男は律儀で頭脳明晰でした。家臣団は二つに割れ、弟を推す者達は謀反まで起こしました。しかし一度は赦した弟を、結局は自ら手に掛けることになりました。
そんな経験からか信長は、長子と次男以下を子供の頃から完全に区別して育てました。

このサヌ命とイツセ命の話しは、王権という権力を目の前にしても揺るがない、そういう麗しい兄弟愛を示しています。そして大和では叔父であるニギハヤヒ命は、約束通りにサヌ命に王権を譲ります。
この様に山本建造氏の説は日本民族の精神性の高さを賞賛していますが、果して真実はどうでしょうか?ニギハヤヒはサヌ命に抵抗したナガスルヒコを殺し、サヌ命を迎え入れたというのは本当でしょうか?

山本説が展開するこの物語は、飛騨に政庁が置かれていた時期を八千年前から五千年間、北陸や東北に移動し始めたのが三千年前頃、大和に都を移すと安川原での大集会で決定されたのが二千年前頃と推定しています。
現在定説とされている年代とは異なっていますが、現在の定説そのものが怪しいので、その辺りは何とも言えません。

*写真は飛騨福来心理学研究所のホームページからお借りしました。
独特の山本ワールド_a0160407_14503072.gif

by levin-ae-111 | 2015-06-07 14:50 | Comments(0)