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by levin-ae-111
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肉体の死と意識

 私達にとって最も重大で重要なのが、この「死」の問題だ。この世に生を受けた瞬間から、私達は死に向かっての歩みを始める。
それは誕生、成長、成熟、老いなどと呼び名を変えながらも決して立ち止ることはない。別な言い方をすれば、生きているとは一瞬一瞬が永久に返らない時間の中に存在しているということでもある。

 物質的なものは常に変化する。どれだけ不変に見えようとも、常に振動する波動の一瞬の煌きであり、それは何時も不確かなものである。
人間存在の物質的側面である肉体もまた、この不確かさから逃れる術を持っていない。
だが人間存在には人間を人間たらしめている精神が宿っている。この精神が宿る故に人間たり得るのであり、それ以外の何者でもない。
 死とは物質的側面である肉体から、宿主である精神が分離する現象である。
精神とは無限の意識のわけ御霊であり、永遠の今に存在する唯一の実在の子供である。
と、こんな風な原稿だったら今頃は市中の本屋さんに僕の著書が並んでいたのか?

冗談はさておき、実際問題として死んだらどうなるのだろうか。僕は一度だけ意識と身体が分離した経験がある。意識には周囲を明瞭に見渡せる視力と、思考力・記憶力があった。
下を見ると、身体は殆どオートマチックに日頃の仕事をこなしていた。
この時、僕にとっての主体は意識の方であり、正直に告白すると身体には何の想いも感じていなかった。
それよりも爽快な開放感で、戸惑いながらもウキウキした気分だった。よくシルバーコードで魂と肉体が繋がっているとされるが、その時コードは見えなかった。
厳密に言えば体脱体験ではなく、一種の意識拡大現象だったのかも知れない。しかし直前まで感じていた物質的な不快感、暑さ、ガスの刺激臭、製品の重量、汗の流れる感覚、近視で貧弱な視力の弊害などは一切感じていなかった。

 この体験以降、死とはこの状況が継続することではないか?と思う様になった。
少なくとも身体と意識は別々に存在し、肉体の死で意識が消えてしまうこともなさそうに思えた。
それ以来、ちょっぴり死に対する恐怖が減った。

肉体と意識が別々な存在だとしたならば、死後に肉体が朽ち果てても意識は存続すると考えられるのではないか。
意識は時間や空間をも内包しており、未来を描くことも過去を振り返ることも可能だ。
つまり意識とは肉体に宿っていても基本的に自由であり、存在が知られているどんな物質的なものよりも大きく、或いは小さく、その速度は無限大で、時間、空間をも包みこんでしまう存在といえないだろうか。しかし、決して難しく考える必要はない。

僕が誰かを想えば、意識は既に誰かの傍にいる。僕が何処かを考えれば、僕は既にその何処かに佇んでいる。戦国時代に想いを馳せれば、時を遡り戦国時代に居る。
こんな風に考えれば、意識とは何かを知る手がかりに成らないだろうか。
僕が意識とは基本的に自由だとし、時間空間をも内包しているとしたのは、これらの事柄を指している。

詭弁だと思われるかも知れないが、自己の内に存在しない事柄や概念を人は理解出来ない。
人が時間、空間、歴史、天体などを認識するというのは、人の意識の内部にそれが存在しているからだ。内なる意識に存在しないものは、例え目前にそれが在っても認識できないし想像さえも不可能だろう。

また誰にでもあるだろう卑近な例では、楽しい時は早く過ぎるが、苦しい辛い時は長く感じられることが挙げられるだろう。 時計の進み方が違うのではない。
意識が認識する感覚が異なることにより、その人にとっての時間が縮んだり延びたりするからだ。

この様に考えると意識とは時間、空間、距離などの物理的事柄から独立して存在する能力を持っていると言わざるを得なくなる。従って肉体と意識は別物であり、肉体の死によって全てが終わり、無に帰すなどと考えることに無理があるのではなかろうか。
by levin-ae-111 | 2010-01-16 09:02 | Comments(0)