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by levin-ae-111

2010年 03月 13日 ( 3 )

チャネリング体験記

序  章
 退屈で憂鬱な日々の連続、もう耐えられないので何かをしようと思いたった。何をするか考えたが、私が唯一ひとに語ることのできる分野の話しをするしかないと思った。
 こんなことを他人に話せばシロイ眼で見られるかも知れないと感じつつ、勇気を出してトライすることにした。
それは「精神世界」の話しだ。以前は一般的に敬遠されるような話しだったが、最近は精神世界に興味を持つ人も増えているようで、根暗で変わり者と思っていた私は少しだけ自分の先進性を自慢したい気分だ。
 精神世界への扉は様々な機会を通してそれを求める人の目前に現れる。深刻な悩みの場合もあれば、興味本位の場合もあるだろう。
どちらかといえば私は後者の部類だろうが、それでも私なりの悩みがこの世界に自分を導いたともいえる。
 これからお話しするのは、私の現在までの精神世界探訪の経過であり、それと共に私の身の上に起こった出来事の報告でもある。信じ難い話しばかりだが「主観的体験」には得てして多いものだ。
 これは私の目前に精神世界の扉が開かれ、それを通って私が現在までに得たチャネリング情報を基に、思いつくままに「宇宙の実相」や或いは「宇宙人」「心霊現象」などの不思議現象について考察したものだ。
 あくまで主観的な情報や体験を基にしているので、科学的に解明されている解釈とは異なる仮説を展開することも多いだろう。しかし科学的に解明されていないからといって、それが存在しないと決め付けることは却って非科学的な態度ではなかろうか。
 近代科学の歴史は宗教的な神秘主義や似非科学や迷信との闘いだったが、皮肉なことに最新科学は相反するはずの宗教的な概念に近づきつつあるようだ。
 まあ、硬い話しはこれくらいにして、精神世界に迷い込んだ男の信じ難い話しを楽しんでもらえれば幸いだ。
by levin-ae-111 | 2010-03-13 11:07 | Comments(4)
 1994年から始まったチャネリングや身体的な異常は、日を追う毎に激しくなり遂には職場を辞するまでになった。まあそれ程に深刻な異常でもなく、チャネリングの勧告に従い、自分の希望に従った結果だったのだが。
未だにこれが妄想なのか真実なのか判断に迷うところだが、自分なりの体験や認識をベースに書き綴ったものを、これまで何度かに分けてmixiの日記にアップしてきた。

当初から何か文章を書くという目標が約束事として正体不明のチャネリング相手との間に存在し、長い時を経て2005年頃に一応のまとまった原稿を書き上げた。
更に出版業界へのアクセスを試みるも反応はなく、原稿は数年の眠りに着くことになった。
昨年ある方の助力で漸く出版社から前向きな返答を得られたが、結局は没になり現在に至っている。

カビの生えた様な原稿だが、不思議なことにその内容はいまだに劣化していないらしい。
原稿を読んだ審査の方からmixiへのお誘いがあり日記を書き始め、心霊研究を本格的に行っておられる方からブログのお奨めがありブログを立ち上げた。
この時点で書籍にせずとも発信は出来ているので、一応は約束を果たせたものと解釈している。が、原稿とは別に手を加え表現を変えて改めて全文を日記で発信しようと決意した。

発信しながらの添削、訂正の作業となるが粘り強く行おうと思う。その訳はあまあまの分量があり、加えて他人の文章を書き写すような違和感が存在するからだ。積極的な部類の理由では、原稿を綴った当時よりも少しはマシな表現が出来るであろうと感じるからでもある。
それにしても、これを書き直すのは容易でないと感じている。
本当に自分が記した文章か?とても不思議な感覚に陥っていて、これを書き直すのは正直面倒で辛い。やはり誰かが自分に書かせたものなのだろうか、書き直す内にまた何がしかの変化や発見があるかも知れないと、期待しつつ労作業にチャレンジする。

あくまでも個人的、主観的な出来事の報告であり、普遍的な何事かを見出せるものではないかも知れない。批判も覚悟の上だが、それでも勇気が必要である。
まあ、お付き合い下さる方は、下手な小説でも読む積りで読んで頂ければ幸いである。
by levin-ae-111 | 2010-03-13 11:00 | Comments(2)
 元寇による財政的負担が鎌倉幕府や御家人達に重く圧し掛かり、加えて論功行賞のいい加減さに不満が募っていた。更には元寇でリーダーシップを発揮した執権、北条時宗が死亡し混乱に拍車が懸かる。そこへ後醍醐天皇の巻き返し工作が露呈し、地方の不満分子が反乱を始める。結局はこの時、幕府方が勝利し天皇やその身内は各地へ流される。
 
 越中を抑えていたのは守護職「名越時有(なごやときあり)」で、時有の許にも皇子の一人「恒性皇子(こうしょうのみこ)」が護送されて来た。
時有は庄川(しょうがわ)河口の放生津に居住しており、彼は皇子を高岡の二塚に幽閉した。
恒性皇子は仏門に帰依し、出家した身であったから信仰心と共に幕府への不満を爆発させた北陸の武士団が、皇子を錦の御旗として担ぎ出そうとした。

時有は皇子の幽閉場所を転々とさせ、武士団から隠し続けた。しかし幕府の命で遂に皇子を処刑してしまう。やがて中央では新田義貞や足利尊氏が幕府勢力を切り崩し、北条一門は次々と消えていった。この動きに連動した各地の武士団は決起し、幕府方は追い込まれていく。北陸でも同様に武士団が決起し、越中守護の名越時有も戦乱に巻き込まれていった。
各地で幕府方の敗北が相次ぎ、数万もの敵を目前にした時有の陣営では戦闘以前に脱走する兵が続出した。
結果、時有は戦う事もままならず、放生津城へ撤退するが、そこでも兵が逃げ出し最後には時有と親戚、腹心ら七十数駒しか残らなかった。
時有は覚悟を決め、残った者の妻子は奈呉の浦(なごのうら)に身を投じて果てていった。
煌びやかに着飾った妻子達が海へ投身し、錦の着物が悲しく海に漂い、赤子の鳴き声も虚しく海原へ消えていった。男達はこれを見届けると、城に火を放ち自刃する。
この出来事は戦争の悲惨さと、命の儚さをひしひしと感じさせ、人々の涙を誘った。放生津での悲劇は「太平記」に記され、琵琶法師の語りとなり全国に伝わった。
城跡は現在小学校となっていて、小さな碑が校庭の一隅に残るのみだ。

名越時有の滅亡で北陸の北条勢力は消滅し、中央でも新田義貞、足利尊氏の台頭で北条氏は滅亡、実質的に鎌倉幕府は消滅した。この後には新田、足利の対立から南北朝時代へと時代の歩は進んでいくのである。
by levin-ae-111 | 2010-03-13 09:57 | Comments(0)