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2018年 09月 04日 ( 1 )


 大正7年8月に米価の異常な高騰に業を煮やした主婦を中心とした富山の民衆が、歴史に残る騒動を起した。俗に言う「米騒動」である。

当時の日本は第一次世界大戦の連合国側として参戦しており、戦時下で貿易額も減少していたが戦争が激化し長引くうちに状況は一変する。

参戦といっても国土にダメージの無い日本は、兵站(軍需物資の補給)の拠点として急激に輸出を増やしていった。空前の戦争景気で「戦争成金」や「船成金」と呼ばれる人々が誕生し、日本は負債国から債権国へと短期間の内に経済的な転換を果たした。

しかし、その一方で庶民は著しい物価の高騰に苦しむこととなる。

全ての物価が上昇する中でも主食たる「米」の値段は、2年で2倍以上にも高騰する。原因は需要を見越した商人たちの買占めで、それにつれて味噌、醤油、塩、砂糖、種油などの生活必需品も短期間に著しく高騰したのである。

米騒動の震源地である現在の富山県滑川市(なめりかわ)から魚津市にかけての富山県東部では、漁民が多く季節柄、不漁が続く夏でもあり生活苦に拍車を掛ける状況であった。

大正7年の資料では米一升が24銭5里であったものが、年末には43銭にも値上がりしている。当時、漁民の一日の収入は約50銭で、家族の人数が平均5.7人となっているからとても生活できるレベルの収入ではない。漁師は一日で1升程度の米が必要な重労働で、これでは自分の分しか賄えない。無論、主婦たちも内職に精を出した。

米の積み出しの手伝いや各種工場で働いたりして家計を支えていた。米の積み出しでは60Kgもの米俵を担ぐのだが、そんな辛い仕事にも女性たちは進んで就労していたのだ。その重労働も完全歩合制で、一つ運んでも1銭1理しか貰えず、せいぜい20銭程度の収入にしかならなかった。

子供たちも働き、薬の紙包みや袋張りなどの仕事で家計を助けていた。

米価が2倍以上に高騰し、働いても賃金は上がらず人々の生活はいよいよ苦境の色を増し生存を賭けた女たちの抵抗が始まった。最初は5、6名で手分けして米問屋や米穀商へ涙ながらに懇願して回るという穏やかなものだった。その趣旨は米が移出されるから品薄となり、米価が高騰するのであるから米の移出を中止して、以前のように米を廉価で販売して欲しいと言うものだった。

しかし商人たちの反応は冷たく、横柄で馬鹿にした態度で相手にもしなかった。

女性たちは示し合わせて大人数で嘆願を繰り返すが、商人の態度は相変らずで女性たちの憤慨は増すばかりだった。米の移出は相変らず続き、騒ぎは頻発するようになる。

警察は警戒を強め監視を常時付ける、行政は輸入米を調達しチラシを出して安く売るなどの手立てを講ずるが焼け石に水であった。一度は輸入出来た米も、需要の拡大で富山の注文分は届かない。人々の生活はより困窮し、生きる為により過激行動に出るようになる。

最初は100名程度だったが、遂には2000名にも群集は膨れ上がった。これは漁民の主婦だけでなく他の労働者もこれに加わり老若男女を問わず集りだした為だ。

公務員の一月の給与が20円前後で、米一升が43銭なら一般労働者の賃金(男性でも330日就業・1日10時間労働で1円前後の日給。女性はその半分)を考えても到底生活できるものではない。

人々の請願にも関わらず米移出の船が入港し、人々は遂に実力で阻止に出る。

(はしけ) の下に子供を抱いてもぐり艀を使用出来なくし、荷積みを待つ船を退去させたりした。それでも移出の船はやって来る、遂に人々の怒りは爆発してしまう。

この時点で騒ぎの主導は主婦から漁師、一般労働者へと移り参加者は更に拡大する。

警察は騒動の中心と目される人物を相次いで逮捕、拘束する。だが釈放を求める1000名以上もの群衆が警察署へ押しかけ、罵声と共に投石を繰り返し警官たちも手を付けられず傍観するしかなかった。

米問屋や米穀商へも民衆が押し寄せ、押しかけ、打ち壊しへと事態は深刻化する。

しかし騒ぎは次第に沈静化し、米の廉売も始まりこの地方での騒動はほぼ終わった。

だが、騒動は富山市、名古屋市、和歌山県、京都、大阪と飛び火し、急速に全国を席捲し史上かってない大騒動へと発展して行った。

「全国的に同じ状況だったから、自然にそうなったのだと思う」と老婆たちが語ったという。

この騒動は遂に当時の寺内内閣を崩壊させ、原政党内閣の誕生へと繋がっていった。

僅か数日のこの騒動だったが、日本の政治中枢にまで影響を及ぼしたのである。

十月に入り富山県最後の騒動が泊町と宮崎村(ヒスイ海岸として有名)発生した。

そしてこの騒動の最中には滑川普通選挙期制同盟会が発足し「物価の暴貴は生活不安を煽り、社会人心に一大動揺を来たす恐れあり、就中米価の暴騰は国民の心身を害するに甚だし(以下略)」との決議文を原敬総理や農商務省大臣その他へと打電している。

この滑川発の声明は、近代社会における最初の社会問題意識の発現であるだろう。

米騒動は生活苦に喘ぐ家庭の主婦層から発して、全国へと瞬く間に拡大し内閣交代という事態まで発展した。無論、彼女たちの望みはそんな事でなく米の廉価販売だったのであり生活の為に儘ならずとった行動であった。

だがここに大衆の大いなるパワーの存在を見出すことが出来る。パワーは本来的に大衆のものであり、それをいかに削ぐか為政者が常に苦心してきた部分でもある。

先人が苦労して勝ち得た選挙権や婦人参政権なのだが、為政者は更なるトリックで大衆のコントロールを試み続けている。

「大衆は生かさず、殺さず」が彼らの本心だろう。一人ひとりに余りに無力だと思い込ませる事もまた、コントロールの一環である。大正時代の米騒動は単に歴史上のトピックスに過ぎないのではなく、真実民衆の力が存在する事の証なのである。

参考文献

著者  :斉藤弥一郎  米騒動

発行者 :斉藤弥一郎遺著刊行会


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by levin-ae-111 | 2018-09-04 20:59 | 日々の出来事 | Comments(0)