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by levin-ae-111

<   2011年 10月 ( 31 )   > この月の画像一覧

地名の由来(リメイク)


現在は町村合併で市となってしまったが、その以前に私が住んでいる地域は郡だった。その郡名は『婦負』郡であった(読者の皆様はこれを読めるでしょうか?)。
正解はネイである。この意味は婦人が負けるのではなく、婦人を背負うという神話時代の古事に由来する地名である。
 江戸時代に富山藩士が著した書籍によれば、地名の由来となった古事は大和王権が確立する以前に遡るのである。尤もそれとは別に代10代崇神天皇即位十年に、大彦命が命を受けてこの地に留まり農耕の指導をした。その時に病没する者が多く、杉の巨木を神とあがめて様々に供養したところ災いが去ったので、この地に神社を建立したというものだ。 また別の古伝では文武天皇大宝二年(702年)6月の創建と伝わる。

 私としては神社に伝わる縁起よりも、風土記として伝わる神話的伝説の方を支持したい気持ちである。神社は杉原神社と号してあるが、隣町にも同名の神社が二社存在する。この縁起からは自社こそは本家本元という主張は汲み取れても、私が旨とするご先祖様たちの偉業も私達との繋がりも感じられない。現に訪れた神社では、社殿が造り直されて新しいこともあるだろうが、神社の縁起は啓示されておらず寄付した人々の名前ばかりが目立っていた。
そこには神となられた祖先への尊敬の念が感じられないし、精神性のカケラも存在していない気がする。尤もこれは私見であり、常日頃から関わって生活の一部となってしまえばそうとばかりは言っていられないのも事実であろう。

 さて肝心の風土記として伝わる神話的伝説であるが、この伝承こそが地名の由来とダイレクトに繋がるのである。その昔、人々は川沿いの平地には住めず、山腹の僅かな土地にへばり付くようにして肩を寄せ合って暮らしていた。川沿いの平地は肥沃ではあるが、時折発生する鉄砲水が人々をその土地に寄せ付けなかったからだ。
 その集落のシャーマンは若い女性 (咲田姫)で、彼女は日々危険な平地に下りてパトロールをしていた。
ある日の見回りの時、密林の奥から木を切る音がします。行ってみると一人の青年(杉原彦)が樹木を伐採し、土地を切り開こうとしていた。
危険だから立ち去るようにと警告する咲田姫に、杉原彦は農耕の話をする。
農耕で生活が安定すること、今までより豊かな食生活が行なえ、集落の人口も増えて、より繁栄することなどを杉原彦は咲田姫に話して聞かせた。
それまで農耕を知らなかった咲田姫は杉原彦の話に感動し、いつしか作業を手伝うようになり、二人で開墾を始める。初めは否定的だった集落の人々も次第に加わり、少しずつ危険で忌むべき場所だった平地は農地へと変わっていったのだ。

開墾もようやく軌道に乗り、これからという時に連日の降雨で川が氾濫した。咲田姫と杉原彦は数十日も耕地を守るために戦い続けた。
ようやく雨も止み、半分以上もの耕地を失いながらも何とか全滅は免れた。その時だった、疲労と安心感から咲田姫は倒れてしまう。
杉原彦は彼女を背負い家に向かうのだが、結局咲田姫は帰らぬ人となった。
この逸話から「婦人を背負う」=「婦負(ネイ)」の郡名が冠せられたのである。
この逸話の二人は現在も神様としてお祭りされている。
この神話的伝説は、男女の神様が力を合わせて人々のために頑張った男女和合の素晴らしいエピソードである。 伝説の杉原彦と咲田姫の二人は、杉原神社に静かに鎮座している。
 
私の在住する場所は富山市の南方、川沿いの扇状地に広がる山間部の町である。
現在でこそ治水が成され、川沿いの平地にも町屋が甍(いらか)を連ねているが、治水に努力したご先祖神の奮闘と苦労に思いを馳せると、ジーンと熱いものがこみ上げてくる。
このように地名の由来を調べていくと、思いがけない伝承に出会える。
私の住む町は世界遺産『五箇山』や『白川郷』に比較的近く、車で日帰りが出来る距離にある。これらの世界遺産の地もまた、独特の歴史が刻まれている。
『五箇山』は平家落人伝説の地であり、『白川郷』にも戦国武将の歴史がある。
山間の僅かな土地に住む人々の歴史は光こそ当たらないが、歴史に興味ある者にとって新鮮な驚きと親近感を味わえて興味が尽きない。
 戦国武将ブームであるが、全国区の有名武将だけでなく地元の名も無き武将達の痕跡をたどるのも一興だし、地元の神話を紐解くのもまた良いものだ。a0160407_5293449.jpg 
by levin-ae-111 | 2011-10-11 05:32 | Comments(0)

坂のまちアート2011

 私の町では9月1~3日の『越中おわら風の盆』が終わった10月に、全国からアーティストの参加を募って『坂のまちアート』を開催している。
この催しは、町内の民家をアーティストに展示場所として提供し、町全体を美術館にしてしまうものである。
今年も水墨画、彫刻、人形、油彩画、水彩画、書、切絵、チョークアート、工芸、前衛アートなど様々なジャンルからの出展がなされている。
展示会場となった家には、坂のまちアートのペナントが掛けられ、アーティストの名前とアートのジャンルを書いた看板が出ている。
中には自分で絵手紙を作成するコーナがあったり、チョークアートを書ける場所なども用意されていたりする。

 出展されている方の中には、TV番組で紹介された作家さんもいる。その方の作品はステンレスで大きな造詣を造り上げるもので、昨年はトンボ、今年はオトシブミをリアルに再現した作品だった。それが日の光を受けて、銀色に輝いていた。
多くの会場には芳名帳が置いてあり、署名が出来る。そしてタイミングが良ければ、作家の方がそこに居たりする。
昨日は友人たちと戸隠神社へ出かけ、私よりも10歳も年上のMさんはともかく、ずっと若いS君も脚に来たと言いグロッキー気味なので、一人で出かけた。
一人の気軽さもあり、自由にアートを鑑賞する積りが久しぶりに城ヶ山(町に有る昔の城跡)に登ることした。

 何百段も続く階段を昇りながら、そこに展示してある前衛アートを見て進む。赤い太めの毛糸に、ナイロン袋に水を入れ木の葉や何かが入れてある。それが何百段も延々と続いている。「・・・???」と思いながら、時折出会う人と挨拶を交わしながら山頂まで登った。
最初は我ながらと、思う程に楽々と登っていたが、流石に途中で脚にきた。息は乱れないものの、脚が張り二度ほど休んだ。何とか山頂に着き、周りを見た私は驚いた。
見事に公園として整備されており、ミニ庭園と池まである。それに加えて、山の上にも山があり、階段が続いている。一つの山には登ってみた。何と立派な管理棟まで建てられている。その向こう側に廻ってみると、更に頂上が見えない程の急な階段が・・・・(汗)
流石にやめておいた。
それにしても、この山に登ったのは中学生の頃以来だった。その頃は松林の間を狭い山道が一本あるだけだった。今はもう車でも登れるようだし、休憩所の東屋も何棟も造られている。長い年月のうちに随分と変わったものだと、しみじみと感じた。

それから、長い長い階段を転ばないように用心しながら下りて、アートを幾つか見て廻った。ある会場にふらりと入ると、隅に作家さんらしい若い女性が一人で座っていた。
芳名帳に署名して、展示されている絵を鑑賞する。どれも日本神話に出てくる女神様をモチーフにした作品だ。出ようとすると、女性が会釈をされたので、挨拶を返して出た。

 狭い町中には、幾人もの人がパンフレットを手に展示会場を廻っている。親子連れだったり、夫婦連れだったり、友人同士だったりと皆さんとても楽しそうだった。
迎える町の人々も玄関先に工夫を凝らした草花を飾ったり、植木や箱庭を手入れしたりと精一杯に心尽くしの努力をされている様子が覗える。
最近では催しが無くても、観光客と思しき人々がチラホラと見える。
私も日本の道百選に選ばれている諏訪町(すわまち)通りの石畳を撮影したり、町並みを撮ったりして二時間近くも町を徘徊して帰宅した。
催しは明日もある。気が向けばまた出かけてみようと思う。ここ何年か連続して足を運んでいるのだが、いつも出展されていた石のオブジェが今年は無かった。少し残念に感じた。
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by levin-ae-111 | 2011-10-10 08:31 | Comments(2)

戸隠神社

 昨日、突然に思い立って友人のS君とMさんの3人で昼過ぎから戸隠神社を目指した。
北陸道から中越道へ入り、新潟県から長野県へと入る。途中で雲行きが怪しい感じになったが、どうにか晴れは続いていて、無事に戸隠神社の中社へと到着した。
それにしても、凄い混雑である。駐車場は満車で、何処にも入れなかったが、何とか近くに駐車して中社へと向う。
中社前に樹齢800年といわれる杉が、その堂々たる威容で私達を迎えてくれた。
中社の大鳥居を潜り、急な石段を登ると中社の本殿と主務所が見えた。
中社に参拝し、今度は奥社を目指すことにした。その前に、あの樹齢800年の御神木に触れてみた。両手をゴツゴツして薄っすらと緑色に苔生した幹に触れると、ゆったりとして優しく細やかで、穏やかな波動が伝わってくる気がした。
私の頭頂の刺激も、次第に細やかで優しい刺激へと変化して行った。

 奥社へは手前で車を停めて、歩くことにした。来た時は満車で入れなかったのでそうしたのだったが、入り口に到着すると空き始めていて車を持って来なかった事を少し後悔した。でも入り口の鳥居を潜り、イザ出発と意気揚々とスタート。
広めの道だったが、身舗装で両サイドの溝には清水が流れている。両側は鬱蒼たる雑木林で期待した杉並木は見えない。
一直線に続く奥社への道は、遥か彼方まで続いていて、その道は参拝の人々で溢れている。
そこを多くの人々とともに、奥社を目指してひたすら歩く。
もうゆうに1キロ以上は歩いたが、杉並木はまだ見えない。更に続く道を進むが、人波が見えるのみだ。
ようやく藁葺き屋根の門が見え、お待ちかねの杉並木が見えた。この奥社の厳しさを知らない私達は、ここからもう少しと思っていた。ところが・・・・。

 道は険しさを増し、坂も次第に登りの角度を増していく。比較的に平坦だったジャリ道は、石段に変り道の凹凸も大きくなっていった。奥社まで900メートルの看板に、意を強くしながら黙々と歩む。
しかし、900メートルはとうに過ぎ、道は登山道のような急坂になり、足の置き場を探しながら進む。木陰の隙間にチラッと建物の屋根の様なものが見えた。
「もう近いぞ」と思ったが、道は険しさを増し建物は見えない。日頃の運動不足もあり、もう脚が痛い。それでも何とか奥社に到着した。
ここのご祭神は手力雄命(たじからお)様で、神話では天の岩戸を開けた力の神で、その戸がここ長野の戸隠山まで飛んで来て落ちたと言われている。神社の由緒書きには200年代の創建とあった。

参拝してから暫く休み、今度は来た道を引き返す。もう夕暮れが近いが、まだ登って来る人々がいる。中には小さな子供を2人も連れ、幼児を背負ったお母さんも。
晴天のお陰で、まだ明るさは残っているが、これからあの険しい道を登るのは危険だと想いつつ、親子の守護を手力雄命様に心の中でお願いしつつ山道を下る。

帰りは下りも手伝って思いの外早く感じた。私達より年齢の高い男性が、勢い良く坂を下りて行く。
脚の痛みは薄らいで、私も気をつけながら歩いた。S君とMさんは、時々立ち止まり写真撮影をしながら下りて来る。
間もなく入り口の大鳥居を出て、車の往来の激しい危険な道を避けて、林の中の道を行く。
周囲は既に薄暗く、Mさんはそんな情況で登って行く人々の身を案じていた。
私達は駐車場にした植物園を目指し、林の中を歩み続けた。道は木材チップを敷き詰めた柔らかな感触で脚に優しい。
途中からは木道に変り、気持ちが良い足音を聞きながら進むと、みどりが池が見えて来る。
池には水鳥が優雅に泳いでいる。
辺りはすっかり夕闇に包まれ始めていて、僅かではあるが美しく色付いた紅葉はもうカメラには写らない。気温も下がり始めていて、私の手は既に冷たい。
駐車場に着くと満車だった場所が、もう私達の車しか無くなっていた。途中で道の駅やパーキングエリアに寄り、お土産を買い込んで帰って来た。
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by levin-ae-111 | 2011-10-09 09:18 | Comments(0)
 今日はテレビで名古屋女子マラソンを中継していた。用事を済ませ帰って来てから観たので、レースは既に30キロ過ぎだった。
どうせ外国人選手がトップだろうと思っていたが、何と先頭争いは日本人の三選手だった。
大南選手、加納選手と初マラソンの伊藤選手が鍔迫り合い。最後は加納選手が優勝、他の二人は追い上げて来たエチオピアのツル選手にかわされ、3位と4位に沈んだ。

現在ではオリンピックその他の大会で普通に設けられている女子競技だが、ここに到るまでには男女差別と戦った先人たちの努力と偏見や当時の常識との闘いがあった。
日本に於いては、人見絹恵さんが総ての女性アスリートの先達である。
1907年に岡山市で生まれた人見は、中学ではテニスに夢中だったらしいが、当時は家族の理解を得られていなかった。
転機が訪れたのは岡山県女子体育大会に参加し、その三段跳びで10m33cmを飛び当時の世界記録を樹立したことにあった。

そして唯一の世界大会である国際女子陸上競技大会に招待され、そこで彼女は輝かしい成績を挙げ、個人優勝を遂げる。当時の開催国スウエーデン選手団が総勢16名で、得点が25点であったのに対し、人見は一人で15得点を獲得し名誉賞を授与されている。
その時も凄いプレッシャーだったろうが、次に出場した五輪での圧力は並大抵ではなかった。日本を背負って戦う、チームメイトは男性ばかり。
男性は負けても帰国できるが、女である自分は負けたら帰れない、絶対に結果を出さねば成らないという想いが彼女に圧し掛かっていたのだ。

無論、100メートルの世界記録保持者である人見には、日本中からの期待がかかっていた。しかし、その100メートルでは予選敗退。無念な結果に夜も眠れず、体が痙攣する極度の緊張状態だったらしい。このままでは帰れないと周囲の反対を押し切り、短距離選手の彼女が800メートルにエントリーし、何とか予選を通過し決勝に臨んだ。
結果は世界記録保持者に続く2位、日本女性初の五輪メダルが彼女の頑張りで獲得できたのである。ゴールの瞬間に失神する程の力走、世界の人々は惜しみない拍手を送った。

その後はアスリートとして競技生活を続けながら、全国を精力的に行脚し後輩の育成に努めた。しかしその人見さんは病魔に蝕まれ、僅か24年7ヶ月の生涯を終えた。
どんな世界にも後に続く人々の道を切り開いてくれた偉大な先人がいる。その人々は偏見や常識との闘いを恐れず、己の道を貫いてくれた。
この様な偉大な先人が日本には沢山存在する。彼ら彼女らの偉業を、是非とも子供達に教えて欲しいものである。
by levin-ae-111 | 2011-10-08 07:12 | Comments(0)
 もう数年も前になるが、友人のMさんと一緒に富山市の山間部にある集落へと出かけた。
その集落、旧八尾町の小井波地区は過疎化が進み、既に僅かな戸数が残るのみである。
富山県内ではミズバショウの群落で有名であり、某大手商社がその環境の良さに目を付けて無菌豚の養豚を手掛けている。
この村は、付近の集落からでも車で細く険しい山道を走り20分近もかかる。そこは山の峠を越え、少し下りミズバショウの湿地を横に見たところで突然に小さな盆地が広がっている。背後には夫婦山が迫り、一筋の小川が涼やかな水音をたてながら部落の中央を流れている。
余談であるが、大昔には富山湾から岩瀬港へ入る目安として、この夫婦山を目標にしていたという。ここは海からは随分と遠い場所であり、夫婦山は特に高い山ではない。
図書館で読んだ本に書かれていた情報だったが、海から夫婦山が見えるとは私には信じられなかった。

 そこを訪れた訳は、Mさんが某宗教団体の人に聞いたという不思議な現象がきっかけだった。彼らは小井波の集落へ、宗教関係の道場を建てるために下見に行ったという。そして小川のせせらぎの傍に建つ『猿丸太夫の塚』へ立ち寄ったそうだ。
その結果、彼らは次々と体調に異変をきたし、道場建設の計画は白紙撤回されたという。
それを聞いたMさんは、興味津々で私を誘ってその塚へと出かけたのだった。
 
私達は付近の町から塚を目指して出発し、舗装はしてあるものの傾斜の険しい山道をひたすら進んだ。眼下には付近の集落と川が小さく見える。
峠の切通しを幾つか過ぎると、春にはミズバショウの群落が美しいであろう山間の休耕田を利用した湿地が見えてきた。
その位置からは、開けた集落の中心が一望できる。何軒もの空き家が朽ちるに任せてあり、既に基礎しか残っていない家や草木に覆われてしまったり、倒壊している家屋が見える。
小川に掛かる小さな橋の手前で車を停め、周囲を見渡すと小川の堤の傍にひっそりと小さな石作りの塚が建っていた。それから、塚の直ぐ近くにもう一本の橋がある。

 川沿いの細道を慎重に車を進め、塚の近くの橋へと向う。遠くからは頑強そうに見えた橋は、近くで見ると鉄骨の骨組みに張られた木の板は朽ちており、幾つも穴が開いている。
自然石を立てた記念碑のような猿丸太夫の塚は、近くで見ると思いのほか小さく、特に変わった様子も無い。
「何か感じる?」とMさん。
「いやっ、特に何も・・・」
私達はしばし、その場所で佇んでいたが、誰一人として人に出会わず小川のせせらぎと、そよそよと吹く風の心地良さを感じるだけだった。
帰りの車中で、Mさんが私を誘ってここへ来た理由を初めて聞かされた。それが前述した内容だったが、私にもMさんにも何の異変も起こらなかった。
と思ったが、沢沿いの狭い道を下りながら、Mさんが突然に「甘い物が欲しい、洋菓子でなく和菓子がいい」と言いだした。

 何だか急に甘い和菓子が欲しくてたまらなくなったMさんを連れて、私は和菓子屋さんへと入った。栗饅頭を買い、Mさんと二人で食べた。
Mさんは饅頭をほおばり、とても満足そうな笑顔になった。
これは猿丸太夫の思し召しなのか?次に訪れる時は、何か甘いお菓子をお供えしようと考えたのだった。

 さて、実のところ私の興味はそんな不思議現象にはなく、猿丸太夫とは何者であるのかという点にある。調べてみると猿丸太夫の塚は、全国の各所に点在していた。
それどころか、近在の別の村にも猿丸太夫の塚が存在している。
本当のところ実在も怪しいのだが、猿丸太夫は平安時代の人物とされているらしい。
しかし正史に登場する事もなく、和歌の中にのみその存在を残している。太夫は三十六歌仙の一人に数えられ『奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき』という和歌は太夫が詠んだものとされる。
 全国行脚を敢行した人物とされてもいるが、全国に点々と残る塚はその名残であろうか。
それにしても現代でも草深い山村である場所へ、そんな時代に都から来訪した人がいたとは何とも不思議な気がする。
by levin-ae-111 | 2011-10-07 05:25 | Comments(4)

戦場の医師「医僧」

 少し前にNHKで「タイムスクープハンター」という番組を観た。
要潤さんがタイムスリップしてその時代をリポートするのだが、映像が妙にリアルで歴史好きとしては創られた時代劇とは比較にならない面白さを感じた。
視聴率が良くなかったのか5、6話で打ち切られてしまったのが残念だが、その中でも取り分け印象に残るのは初回の「医僧」の密着リポートだ。
 戦国時代の戦には「医僧」と呼ばれる僧侶が戦場に同行し、傷ついた武士たちの治療に当たっていた。現代で言えば衛生兵だが、武器は持たず薬や治療道具、酒、水などを入れた郡を背負い戦場を駆けまわっていた。酒や水が不足した場合は、戦士した死体の水筒から調達するなど、臨機応変な対応が求められた。

しかし負傷しても彼らの治療を受けられるのは侍大将(全体の指揮官ではなく、一部隊の指揮官)か、それ以上の地位の者に限られていたようだ。一般の兵卒は手当てを受けられず、自分たちで我流の治療をしていたらしい。
医僧の使用する薬品はとても高価で、兵卒にまで使用することは禁じられていたのだ。
この番組では負傷した侍大将を治療中に、領主からの撤退命令が出た。そこへ家老が負傷して転がり込んでくる。付き人の侍は家老の治療を優先するように医僧たちに迫るが、それをなだめながら治療を進め、撤退していく。

彼らは領主に雇われているため、主命は他の武士同様に絶対のものだった。物語の医僧たちは治療を優先させ、すぐにはその場を動かなかった。それから撤退するのだが、道の途中で負傷者を見つけると身分に無関係に治療を施していく。家老に付き従っていた武士も途中で負傷、彼は治療を受けられる身分ではないが医僧たちは治療を行った。
台詞こそ現代語だったが、撤退途中に転がる薄汚れた死体や武士たちの汚れた顔や手足、尻などが非常に生々しくリアリティに拘った創り手の意識が現れていた。

それはともかく、荒々しく凶暴な武士たちが殺しあう戦国時代の戦場で仕事をするのはどんな気分だろうか。物語では師匠格の一人が歴戦の元武士で、殺し合いに疲れ自分の人生を振り返った時に虚しさを感じ、殺人とは反対の医僧の道を選んだとい言った。
また若い弟子は大変な商売と思ったが、稼ぎが良いので医僧なったと話していた。
 これは「医僧」についての史実を基にしたフィクションだが、このような人々の存在は戦国ファンにも余り知られていないのではないだろうか。
歴史に登場する武将は華やかで壮絶な生涯を後世に知られているが、無名の人々の存在にスポットを当てるのも面白い。
 
現代社会もビジネスという合戦に明け暮れる戦国時代だ。人生を賭けてお金儲けに奔走し、敗れれば従業員ともども路頭に迷う。そんな社会で生き残り、勝ち抜くのは大変だ。
幾多の人々が脱落し苦悩の中で呻いている。誰もが我田引水で、他人の事など気にもしない。こんな現代にあっても、この医僧たちのように他者のために頑張っている人々にエールを送りたいと思う。
by levin-ae-111 | 2011-10-06 05:25 | Comments(0)
 三週間前に図書館で借りた本を、ようやく読了した。タイトルは「海を越えた縄文人」。
返却期限をとうに過ぎてしまったが、申し訳ないと思いつつ読了するまで手放せなかった。
この本は縄文人が遥か1万数千キロに及ぶ大航海を経て、最終的には南米大陸にまで進出し彼の地の文明に影響を与えたとする仮説(実は影響などと呼べるものではなく、文化の担い手であった)に基づく検証の旅の記録である。

日本で土器製作が始まったのが1万6500年前、赤道付近の南洋諸島への航海が始まったのが5000年前とし、最終的にはその時代の土器が南米大陸から発掘された。
従来の説では地続きとなった箇所から何世代も掛けて海を渡ったとされていたが、実は航海技術を用いての旅の結果であるらしい事が本書では述べられている。

一行はゲストに俳優の仲代達也さんを迎え、彼が中心となり南洋の島々では歓迎の儀式に臨んだり、訪問の儀礼を行った。その島々で先祖崇拝や言葉の意味や様々な習慣や祭りが、日本では既に失われたもの含めて存在している事実に遭遇したりした。
貝殻の通貨や葉っぱの通貨が流通するラバウル諸島で、仲代さんも葉っぱの通貨を作り買い物までしている。
更にはイースター島でも不思議な日本との符号を発見する。モアイ像の据えられている土台の下はお墓になっている。縄文人は大地や家族の魂との繋がりを重視し、竪穴式住居に住み、その下には家族を埋葬していた。現代でも地方によっては家の敷地内に墓がある。

そして機織や不織布に見る日本との共通点、船を棺にする安置の習慣、ヒスイの加工技術など日本を経て伝えられたと思える事象が幾つも挙げられている。そして遂には南米大陸へと上陸する。
そこでは体内に見立てた穴倉をくぐる宗教的な儀式や、太平洋から来て国を造り去っていった神の伝説。イタコの様な死者の言葉を伝えるシャーマンの存在が日本との共通点を際立たせている。

そして極めつけはペルーの内陸部に忽然と出現した土器文化の存在。世界でも類を見ない縄目の土器、そう縄文土器である。この土器は単に厚手の素焼きではあるが、技術的には製作がとても困難なものらしい。日本でも焼成途中で失敗したものが、多数出土している。
従っていきなり完成したものが、しかもデザイン的にも洗練された作品を制作するには技術的な下地が必要なのである。それが、突然に何の前触れもなしに出現していたのだから縄文人との関連は否めない。
そして日本と同じ「縄文の女神」(石に線刻された女性像)と呼称されている石土偶も出土して、縄文人との関連性が決定的になる。

山間部にも関わらず海草を食べる習慣、今も尚お歯黒の習慣を残す少数部族の存在。
遺伝子的にもアイヌ人と南米インディオの関係は立証されつつあるなどの科学的証拠や、事故により流出した大量のビニール製おもちゃの漂流を追跡した結果では、漂流状態でも2年で南米へ到達する事実を挙げるなど仮説の補強も忘れていない。

魏志倭人伝に残る黒歯国や裸国の記述、黒歯国への道程は倭国から船で1年と記述されているらしい。魏志倭人伝には倭人に関わる事のみが記されているから、この二つの国はやはり赤道付近の島々(裸国)と南米大陸のエクアドル付近の(黒歯国)の事を示しているのではなかろうかとしている。日本でも女性の習慣として「お歯黒」が近世まで存在した。
それから刺青の習慣、日本でも中国から儒教が渡来する以前には刺青の習慣があったらしい。南洋の島々では、刺青文化が生活に定着している。

余りにも多岐に渡る逸話と、島々の習慣や発掘事実に基づく論説が駆け足で述べられているうえに、読者が読了を急いだ為に熟読できておらず、断片的な文章になってしまった。ただ最後に仲代さんのコラムが印象的だった。
この一年近くにも及ぶ取材の旅を終えて、彼は自分探しの旅と位置づけた目的は達成されたとしている。そして魂の触れ合いをそこここで感じたネシアから南米への旅には、祖先を共有する人々との共通の血の流れを感じられた様である。
それを仲代さんは「魂の交流を大切にする文化圏」と表現され、その後にニューヨークへ旅した折にそれまで無かった違和感が有ったと述べている。西欧では意思を伝えるのに文字か記号しか伝える手段が無いと感じられたらしい。

無論、それは全体的な雰囲気と文化の違いを端的に表現されたのであり、決して西欧の人々が魂の交流を否定していると決め付けているのではない。
この科学技術時代にも素朴な生活ながら魂の交流を重視する南洋の人々と、便利な機器に囲まれながらも経済動向や孤独感、義務感や時間に縛られる生活のどちらが人間らしいのだろうか。
こんな時代だからこそ、その両面を持つ私達「日本人」の存在が重要なファクターとなるのではないかと感じる。
by levin-ae-111 | 2011-10-05 05:20 | Comments(0)
 先々週に借りてようやく今に成って本格的に読み始めた「海を越えた縄文人」というタイトルの本。まだ半分くらいしか読めていないが、ここでまた中間報告をする。
日本テレビのスタッフと同行するゲストは俳優の仲代達也さん。
プロデューサーの主文の間に仲代さん自身の文章も挿入してある。

僕と同じで海が苦手な仲代さんは、海とは無縁の生活だったが最愛の奥様を亡くされて自分がいかに狼狽し落胆しているかを思い知らされた。全く泳げない仲代さんが、南洋の島々へ出掛け、小船に乗り込み無動力の航海にチャレンジする決意をされたのも、奥様の死と無関係ではなかった。それまでのライフスタイルは、年の半分が舞台、半分が映像の仕事と決まっていたそうである。それが半年間以上も海外へ出て、しかも南洋の島々を無動力の小船で航海する大冒険を決意したのだ。相当の覚悟が必要だったに違いない。

 さて、一行が最初に向かったのはヤップ島だった。日本列島から南西へ3000キロのこの島では、欧米文化が流入している今日でも石貨が未だに価値を持っており儀式やシャーマンへの謝礼として使用されている。この慣習も島の長老たちの伝統文化を守る努力により存続しているらしい。珊瑚しか無いこの島には石は少なく、石貨は遠く船で運ばれてきたものである。中には人の背丈ほどもある巨大なものがあり、運搬の苦労が偲ばれる。石貨運搬の為に落命した人々も多く、海に潜ると沈んでいる石貨が見られるという。

一行がヤップを訪れた理由は、無動力船を用い天測だけで航海する人物がそこに居るからである。「真の航海者」と呼ばれ、人々の尊敬を集める人物の一人がこの島に滞在していたからだ。今回、スタッフと仲代さんは、この真の航海者に率いられたクルーと共に24時間の航海に挑む。

真の航海者とは天測と風や波から位置や方向を見定め、船を目的地へと導く技術を備えた船乗りだ。その存在は縄文人が古代にどのように航海したのか、果たして本当に何千キロも航海できたのかを確かめるヒントを与えてくれる。
この真の航海者の名はレッパンさん、彼は1975年にカヌーで太平洋を3000キロも北上し、沖縄の国際海洋博覧会へ乗りつけた人物であり、実力の程は申し分ない。

このヤップ島では日本の祭りと同じ儀式が存在しており、女性たちによるスティック・ダンスは石貨運搬に出る男たちの無事を祈り祝福するものだ。櫂(かい)に見立てた棒を打ち鳴らして踊るのだが、これが日本の茨城県の祭礼にも存在するらしい。その意味は戦勝祈願だが、その他にも不思議な儀式の符合がある。茨城県鹿島市には12年に一度、ネシアと同様の双胴船が主役の御船祭りなる神事が存在するらしい。

それから生活習慣の奇妙な類似、魚の燻製、餅に似たパンの実から作る伝統的な食物の存在、そして「ふんどし」。この島の男たちは「ふんどし」を身に着けている、大戦中はこの「ふんどし」のお陰で、日本兵との奇妙な親近感があったという。

本来の目的はレッパンさんと共に伝統の船を使い、オレアイ島からサワタル島を目指す航海を体験することだ。この船はコンパス(方向を知る機器)も動力も無い、全ては真の航海者レッパンさんの航海術に懸かってる。予定どおりなら24時間で到着だが、悪天候やレッパンさんの体調不良もあり50時間も費やして要約目的地に到着した。

そして祖先は日本から来たと信じている人々の島、キリゥイナ島へ上陸。島の長老への貢物はサメだ、仲代さん自ら危険なサメ漁に挑戦しハンマーヘッドシャークとホオジロザメを見事に捕獲した。この島の人々には歯を抜くとか歯に切れ込みを入れる、縄文時代に行われたと見られるものと同様の習慣が見られるらしい。
先祖信仰があり櫓(やぐら)を囲んで先祖を迎えて踊る盆踊りと同様の行事、柱を立てる行事は長野の諏訪大社に伝わる御柱祭りにそっくりだ。
そして母系社会であり、財産は女性が引き継ぐ慣習もある。男性は入り婿という形で結婚が成立している。日本でも武士が台頭する以前は男性が女性の家へ通う、通い婚が普通であった。

日本人が祖先と信じる根拠は古い伝承にあり、人々はそれを信じていると長老も認めている。日本同様の先祖を祭る習慣は付近の島々にも存在しているらしい。
そして小船を棺桶にして埋葬する習慣も、日本の縄文時代の遺跡から出土した遺物と共通している。
それからニューブリテン島ラバウルへと一行は向かうが、ここでも日本との共通点を見出して縄文人の足跡を更に確信する。ナマハゲ的な怪物が登場する儀式が共通していたのだ。

実はまだ読了していません、今回はここまでです。
それにしても遥かな太古に勇敢にも大海原に小船で漕ぎ出した縄文人、漂流の末に偶然に南洋の島にたどり着いたのではなさそうだ。先述の「真の航海者」が縄文時代にも間違いなく存在した。彼らが家族単位であるいは部族単位で、日本を船出したと考えられている時期と縄文海進期(水位が上がり陸地が減少した)や気候の寒冷化の時期が一致している。
また九州地方では火山の噴火が続き、多くの縄文人に被害が出ていたに違いない。

縄文時代の祖先たちは生き残る為に船出した。縄文時代は僕たちが教科書で教えられた原始人の時代ではなかった。高度な航海術と農耕、芸術的な土器、先祖崇拝、様々な文化を持ち南洋の島々へと移住して行った文明人だった。
その文化の名残は南洋の島々に受け継がれ、21世紀の現在でも脈々と息づいている。
by levin-ae-111 | 2011-10-04 05:26 | Comments(0)
手許に興味深いタイトルの本がある。タイトルはズバリ「海を越えた縄文人」だ。
テレビ東京の開局記念番組を書籍化したものだが、内容は学生時代に教えられた縄文時代と縄文人のイメージを覆すものだった。
 まだ読了していないので、何とも言いかねるが非常に好奇心をそそられる内容だ。
縄文時代は4000年前くらいの時代で、人々は稲作を知らず狩猟採集を糧として生活していたと考えられていた。ところが最近の年代測定の技術的進歩で、次々と定説が覆されている。まず縄文土器の年代だが、驚くべき事に16500年前のものが発見されたというのだ。またポリネシアやミクロネシアで発見された土器片の成分分析を試みた結果、日本の遺跡から出土した土器と同じだとの結論が出たらしい。

その他にも縄文時代の天文観測所らしき遺跡や、スートーンサークル、炭化した米も発見されている。稲作は縄文の晩期から弥生時代にかけて始まったとされていたが、その遥か以前の6000年前の土器に付着しているものが発見されている。
ミクロネシアやポリネシア、メラネシアと日本から離れるにつれて、出土する土器の年代が新しくなっているそうで、仮説によれば縄文人ははるか南米にまで航海の足を伸ばしていたのではないか?としている。

ミクロネシアやメラネシアの島には、日本語と発音も意味も似た言葉が幾つもあるらしいし、祖先は日本から来たと考えている人々もいるらしい。
縄文人は世界の最先端を行っていた人々らしく、16500年もの以前から土器を使用し食べ物を調理していた。この本に依ればヨーロッパに土器が登場したのは7000年前程度だという。その先進性には、驚くばかりだ。

そして謎の海洋民族「ラピタ人」。ニューカレドニアから出土した芸術性に富んだ、皿や壷などの様々な土器は地名にちなんで「ラピタ土器」と命名されている。
このラピタ人は周囲何千キロの範囲の島々に生活圏を広げていた。
日本では縄文晩期にあたるが、その頃は既に漆なども彩色に使用されていたようであり、洗練された芸術性の高い土器も縄文とラピタとの共通する特徴だとしている。ラピタ人は
血統的に縄文人と現地人の混血により、誕生した種族ではないかと予測されている。

縄文人の船といえば、丸太をくり貫いた丸木船を創造してしまうが、どうもオールだけでなく帆を使用した帆走も出来たのではないかと予想されている。彼らは天体観測をしながら海流を読み、大海原へ漕ぎ出していたのではないか。
遺跡からはマグロなど外洋魚の骨も多く出土しているから、航海術は一定のレベルまで発達していたものと予測できる。
現に結構な荷物が積載加納と思われる船が、造船所と考えられる遺跡から出土しているともこの本に記してある。

何故に縄文人は危険を犯してまで外洋へと漕ぎ出したのか?主な理由は気候の寒冷化と考えられている。土器の年代が日本から遠くへ離れるほど新しくなるのは、外から日本へ来たのではなく、日本から外へ拡がって行った証拠ではなかろうか。

まだ途中なのでこの程度しか紹介できないが、この本を読み進むにつれて某古文書の事が頭を過ぎる。
その古文書とは「竹内文書」であり、その内容はかって日本は世界の中心であり、天皇はその子等を世界の5大陸へ「ミット尊」(王)として送り出していた。
その王たちは黄人、赤人、青人、白人、黒人の祖先となった。
そして5色人は日本へ参集し、天皇は天の浮き船に乗り世界を巡幸した、とある。

縄文人は外洋へ帆船で漕ぎ出し、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシア、更には南米大陸にまで到達していたとしたら、正に「竹内文書」の世界観そのままではないのか!!
その縄文時代の遥かな記憶が竹内文書を書かせたのか? 興味は尽きない。
by levin-ae-111 | 2011-10-03 05:18 | Comments(0)
 江戸時代の末頃、1855年(安政2年)に日本最初の長距離レースが開催された。走ったのは安中藩の50歳以下の藩士たちだ。
この長距離走『遠足』は安中藩が藩士の心身を鍛錬する目的で、行われたもので着順などは重視されなかった。レースコースは安中城を出て安中宿から松井田宿へ、そして碓氷関所を経て碓氷峠の碓氷権現神社の社殿までの約28キロであった。
参加人数は総勢96名で、全員が一斉に走るのではなく、何日もに渡り7~8名、最低でも2名のグループに分かれて出走する。
前日にグループごとに大目付に届出てエントリーし、午前4時半ころにスタートする。
エントリーしたからには、出走を取りやめる事はできないという厳しい条件も付加されている。
武士たちの井出達は鉢巻にタスキを掛け、水の入った竹筒と帰りの履く草鞋を腰からぶら下げ二刀を腰に挿している。
碓氷関所でラップタイムを知らせるが、通過の際に知らされた時刻をランナーは記憶しておかねばならない。関所からは山道続きで、武士たちを苦しめる。
走り方は現代の私達とは異なり、手を振らずに走る。つまりは、時代劇などで見られる武士の走り方である。

 心身鍛錬の目的とはいえ、参加する武士たちの想いは様々であった。この遠足を勝負と捉える者、自分自身への挑戦と捉える者などが少数ながらいた。
レースは大目付の「各々方、刻限でごさる」の口上に続いて、「いざ!」と掛け声が掛かり太鼓がド~ンと鳴らされスタートする。
若い侍たちは、一斉に弾かれた様に飛び出していく。途中、関所で時刻を聞き、険しい山道を走破し神社に着くと、関所で聞かされた時刻を申告し、それに到着時刻を書いた割符を神主から貰う。その後は初穂料を支払い、酒や餅などの軽いもてなしを受けてから来た道を帰って行き城に戻り、大目付に結果を報告し、それで彼らの遠足は終了するのである。

 さて、このレースの元締めである大目付も参加する。大目付と一緒に走る武士たちは身分の高い者が多い。彼らは水筒や草鞋を共の小物に持たせ、身軽にして走る。
身分が下の者たちは、上の者を抜かないように注意して走る。上の者が途中で休憩すれば、下の者は間を置いて止まり上の者が走り出すのを待つという具合だ。バテバテの大目付は下の者たちを先に行かせた。
下の者たちは不承不承、先に行くが、更に気を使って大目付との差が大きく成らないようにタイム差を調整してゴールした。その後で整列し、大目付のゴールを見守るといった具合である。
武士の世界は複雑でややこしいものらしい。
一方で40歳を過ぎた自分にカツを入れるように、連日のトレーニングを行っている者がいた。岡本喜四郎は、この遠足を自分への挑戦と捉えており優勝を目指している。
長刀を背中に背負い、坂道を何度も往復して鍛錬している。それに加え、藩のお抱え飛脚である留吉に走りのコーチを受けていた。
留吉は走りのプロである。留吉の走りはナンバ走りと呼ばれる走法で、一方の手と足を同時に出す走り方である。喜四郎は留吉のコーチを受けて、遠足に臨んでいた。
一緒に走るのは、彼よりも遥かに若い20代の者ばかりだ。

「各々方、刻限でござる」と大目付が宣言し、「いざ!」の掛け声が掛かり、太鼓が打ち鳴らされた。
最初からハイペースで飛ばす若者たちに、喜四郎はどんどん離されていく。だが彼はペースを変えない。関所を過ぎ山道に入ると、若者たちのペースが落ちる。途中で留吉の声援を受けながら喜四郎は一人、また一人と落ちてくる走者を抜き去りながら、淡々と走る。
遂にはトップでゴールした。
岡本喜四郎は、少しは走りのコツを掴んだと思うと言い、翌日からもトレーニングを続ける。彼の自分自身への挑戦は、まだまだ終わらない。

そしてこの遠足を勝負と捉えている者がいる。28歳の青年藩士である日下部伝蔵には、どうしてもこの遠足に勝ちたい相手がいる。その相手は真下蒔太である。
伝蔵と蒔太には因縁がある。藩主催で実施された鉄砲の腕前を競う大会で、僅差で負けていた。だがそれよりも、日下部家と真下家の因縁の方が二人の間柄により大きな陰を落としている。話は30年も前に遡る。
伝蔵の母親のふみは、意に沿わぬ縁談を断り、幼馴染の伝蔵の父に嫁いだ。フラれた相手は真下家の跡継ぎであった蒔太の父親であった。真下家は禄も多く、名門の家柄だった。
以来、面目を潰された真下家は権力を使って日下部家を冷遇した。
その母のふみは不治の病で、今は病床に臥している。父は早くに亡くなり、伝蔵は女手ひとつで育てられたのだ。
「母の為にも勝ちたい」日下部家を冷遇した真下家の息子に勝ちたい、と伝蔵は強く望んでいたし、母に真下家の息子を打ち負かしたと報告し喜ばせたいという強い想いを持っていた。

レース直前に大目付に呼ばれた伝蔵は、母が危篤状態に陥ったと知らされ、希望するなら特別にレースを中止して帰宅を認めると告げられた。
しかしこれを逃せば、二度と真下蒔太との勝敗を決する 機会が巡って来ないかも知れない。伝蔵は心を決めて、参加しますと返答しレースが始まった。
伝蔵と蒔太のレースはデッドヒートになった。一時は伝蔵がリードするが、蒔太も大きなリードを許さない。山道で足を滑らせた伝蔵が転倒した、その脇を蒔太が走り抜ける。
伝蔵は足を痛めたのか苦しそうだ。でも諦めずに、必死で蒔太を追う。
蒔太もプレッシャーを跳ね返そうと頑張るが、遂に伝蔵が逆転し、碓氷権現神社の境内に
一着で飛び込んだ。
しかし伝蔵は割符を受け取ると、大急ぎで山道を引き返していく。伝蔵は母親の許へ着くまでが勝負だった。危篤の母親に勝利を知らせたい、その一心で伝蔵は山道をかけ下っていく。果たして、母は命を保っているだろうか。
伝蔵は母に勝利の報告が出来た。母は伝蔵の手を握りながら亡くなった。

 この遠足は二度とは行われなかった。だが記録されている競技としての長距離走では、これが最古のものであるという。無論、例によって武士たちの人間関係やレースの模様は
フィクションである。
by levin-ae-111 | 2011-10-02 08:12 | Comments(0)