身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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少年時代の思い出5

 小学生の頃に、稀でしたが校長先生の授業を受ける機会がありました。恐らくは担任の先生に都合が出来て、校長がリリーフ登板したのでしょう。
校長は白髪頭の立派な体格の人で、その顔つきは厳格を絵に描いたように厳しかったのを覚えています。

 ある日、校長が授業をすると聞かされ、子供たちは何の授業なのだろうと少しドキドキして待っていました。校長は若い時の怪我が元で、足が不自由な方でした。
コツコツと杖の音と靴音を響かせて一段高くなっている教壇に立った校長が始めたのは、自身の戦争体験の話しでした。

校長は陸軍将校として部隊を率い、中国大陸で戦ったそうです。その体験は、とても壮絶でした。敵弾が自分から遠いのか、近いのか、その飛んで来る音で判断がついたという話しを皮切りに、自らの体験を淡々と話されました。

ある時、墓地で戦闘になったそうです。中国は日本とは違い土葬ですから、墓地には棺桶に収められた遺体が埋められています。
日本刀をかざして、敵陣へと突入しようとした時、校長は突然に地面に開いた穴に落ちてしまったそうです。穴の正体は埋められた棺の蓋が腐って、土と校長の重さに耐え切れずに陥没したものでした。中には腐敗した遺体があり、白骨化したものもあったそうです。

次は放棄された建物に入り野営した時の話しでした。隊長であった先生は、兵士たちとは違い個室で眠ることに成りました。ベッドの上に横になると、何だか異臭がする。
見るとベッドの下には棺桶があり、遺体が収められていたそうです。
非常に恐ろしかったが、隊長がそんな泣き言を言う訳にもいかず、何とか一夜をその部屋で過ごしたそうです。

 校長は空襲も経験されました。戦闘機が機関銃を撃ちながら、上空から狙ってきます。周囲には着弾の土煙が舞いあがり、生きた心地がしなかったそうです。
ただやはり隊長だった校長は冷静でした。「敵のパイロットもなかなか勇敢だった。垂直に近い角度で急降下して銃撃してきたのだから、敵も命がけだった」と、話しておられたのが印象に残っています。

そして、後の戦闘で校長は足に敵弾を受けます。その時の衝撃は、痛いというより何か丸太で強く足を殴られた様な感覚だったそうです。それから焼けた火箸に触れた様に熱いのだそうです。暫くは痺れたようになりましたが、それが過ぎて初めて痛みを感じたそうです。野戦病院に運ばれ、やがて校長は本土へと送還されて、終戦を迎えたのだそうです。
その時の校長がどういう経歴の持ち主であるのか、子供の私たちには分かりませんでしたが、戦争という悲劇に巻き込まれた青年の一人であったのに変わりない事だけは理解できました。

あれから随分と時間がながれ、校長先生は当時の年齢から推測して、もうこの世の人ではないでしょう。校長は部下や仲間の死を何度も目前にされたそうですが、ただ自分の武勇伝を聞かせたかったのではなく、「お前達、戦争とはこんなものだった」と、子供たちに伝えたかったに違いありません。

あれから40年以上を経て、私がこのような事柄を記すのも、そういう先人達の意志を若い人々に伝えたいと願うからです。
古き時代の子供たちの生活は、玩具も何も無かったけれど、真っ暗に成るまで外で遊び、自然と戯れた豊かなものだったと伝えたいのです。
学校でも先生たちは個性豊かで、最低のルールを逸脱しない範囲で、一生懸命に子供たちの面倒をみて下さっていた時代でした。周囲の大人たちも、自分の子にも他人の子にも同じ様に接してくれた時代でした。
そういう思いやりのある時代に育った私は、ある意味で幸せ者であったと思います。
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by levin-ae-111 | 2012-08-18 05:21 | Comments(0)
 8月15日のNHKスペシャルは、終戦の日ということで、戦争終結に向けた当時の日本のトップたちの実態に迫ろうとしていました。
日本のトップとは、昭和天皇であることに間違いは無かったのですが、実際には陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、参謀総長、軍令部総長の6名でした。
この6名が戦争終結に向けてどう動いたのか、或いは動かなかったのか、終戦工作に関わった高木元海軍少将の残した資料、イギリスで発見された暗号電文などを絡めた構成で検証しようとしていました。

 当時の軍部の考えは連合国に対し、まず一撃を加え、これを和平交渉のきっかけにするというものでした。しかし実際に一撃を加えるほどの兵力も残っておらず、その機会も訪れることはありませんでした。ソ連を仲介に和平交渉を進めるという日本の目論見は、ソ連がアメリカ、イギリスとの首脳会談により対日戦参加を約束した時点で望みがなくなっていました。
それはヨーロッパ各国に駐在していた陸海軍の武官から、各所属へと暗号電文でソ連参戦の時期などにも触れるほど詳しい内容で打電されていたのです。その暗号電文を解読した資料が、イギリスの公文書館に保存されていました。それが発見されて、それ以前に考えられていた日本はソ連の参戦の情報を知らなかったという定説は覆りました。
そこで疑問なのは、その情報を知りながら、国家のトップ6名は何も手を打っていなかったことです。どうしてなのでしょう。

 折角の情報が共有されず、知っていた陸海軍はそれを外務省、その他の関係部署には伏せていたのです。最悪なことに、その重大な情報は天皇にさえ伝えられていませんでした。
そういう状況にも関わらず、近衛文麿を特使に仕立て、ソ連との交渉を進めさせようとします。しかし特使に持たせる条件については、結局のところ何も決まりませんでした。
ソ連へ特使の派遣を要請したものの、無駄に時間を浪費する内にスターリンは連合国との会議に出掛けてしまい計画は泡と消えたのです。

太平洋戦争での日本人の犠牲者は約300万から310万人といわれていますが、終戦前の3ヶ月間で60万人の犠牲が出たと推定されています。広島で16万人、長崎で7万人、それ以前には沖縄での犠牲者がその多くを占めています。無論、東京を初めとする空襲での犠牲者もこれに含まれると思います。
いち早く終戦を決めていたならば、これらの人々の犠牲はもっと少なかったはずです。

研究者が述べる決定が遅れた原因は、国家の意思を決定する6名のトップが平等であり、誰も自分の領分を越えてリーダーシップを発揮しなかったからだと言います。
彼ら6名は盛んに会議を開きますが、結局は何ひとつ決定しませんでした。誰も責任を取ろうとせず、自分自身の本当の意見を口にしなかったのです。
陸軍は戦争継続に拘ったと考えられ勝ちですが、陸軍大臣は腹の中では和平交渉を望んでいた形跡があります。しかし、結局は最期までそれを口にしませんでした。

そして、満州へのソ連軍の怒涛の進撃を受けて、日本は原子爆弾の洗礼を受けようやく負けを認めて無条件降伏を受諾したのでした。終戦工作に奔走された高木元海軍少将の資料には、腹の内と異なる意見を公の会議で語るとは考えられない、意見と異なる結果に会議が導かれたらどうするのか?とても、国の運命を委ねられた人の態度とは思えないという意味の記述があった。更に戦争を振り返って、ここまで日本が惨憺たる状況に陥った原因を、戦争指導者の無為無策であり意思の薄弱であり、感覚の愚鈍さは驚くべきものがあったと記している。また「反省を回避し過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過誤を繰り返す危険がある。勇敢に真実を省み批判することが、新しい時代の建設に役立つものと考えられる」とも新発見の資料で述べている。

 さて、この状況、まさに高木元少将が書き残した指導者たちへの批判は、現在の指導者たちに向けて書かれたと判断しても差し支えないと感じられないでしょうか。現代の日本の政治的状況、外交姿勢、どれを取っても同じようにしか見えません。
正しく反省を回避し、過去を忘却しているとしか思えないし、無為無策・意志薄弱で感覚が愚鈍であるようにしか見えないのではないでしょうか。
やはり、現代人は戦争を繰り返しては成らないと言いながら、戦争当時と何も変わっていないと思わざるを得ないのです。
縦割り行政は省庁の連携を阻み、各々が自己と組織の防衛ばかりを考えているようにしか見えません。3.11の大災害と原発事故に対する対処は、未だに責任の所在も明確にされず、事故対応さえ行われないままに残った原発の再稼動を始めてしまいました。

事故そのものは仕方がないにしても、その後の対策や責任の追及が行われないままでは、また同じことを繰り返すでしょう。国民は目覚め始めていますが、政府はそれを無視し続けています。日本人の特性ともいえるこの物事をうやむやにして済ませてしまう性質は、少なくとも政治行政では新システムの導入などで、何としても修正されるべき課題であると私は考えます。
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by levin-ae-111 | 2012-08-17 05:22 | Comments(0)

友人との対話2


 友人とは時々、なじみの喫茶店で長い時間を話し込むことがあります。大体、月に一回程度のペースです。お互いに普通ではない話しを好む人なので、日頃の鬱憤がたまっているからかも知れません。
この日も大岩山日石寺に参拝し、また元の喫茶店で話しました。ここの大岩に掘り込まれてある不動尊は、歴史も古く由緒書によれば平安時代にまで歴史が遡るとか。

 さて友人には、二人の子供があります。二人ともにもう社会人です。が、次男が就職を考える時に、友人は父親としてひとつのアドバイスをしました。
友人自身は不動産会社を皮切りに、大手スーパーで出店関係の部門で働いたり、倒産寸前の会社を再生したり、建設業の社長を務めたりと多彩な経歴を持つバリバリのビジネスマンだったようです。

 関東地方で評価の高い大学を卒業した彼の次男は、現在は中小企業で一生懸命に働いているといいます。それは父親のアドバイスを受け入れて、自ら選んだ会社だそうです。
普通の父親とは異なる友人の息子へのアドバイスとは、従業員が100名以内で経営者の顔が見える程度の規模であること。それから少なくとも3年間は現場に出ること、3年後には転職も良いしマネジメント部門への勤務を希望しても良いだろうというものでした。
息子さんは友人たちから「どうして、そんな会社に?」とよく訊ねられたそうです。息子さんの友人たちは、大手企業への就職を目指していますから、この疑問は当然です。

 友人は3年も勤めれば、社会人が経験する一通りの出来事に遭遇するだろうし、自分がその仕事を好きか嫌いかを判断できる、そして一から自分の仕事のスタイルを構築する足がかりを得ることも出来るはずだと言います。
そういう話しをしながら、私も自分が初めて就職した時のことを思い返していました。いきなり現場の第一線へ出されたこと、一部門の一人前の担当者として扱われ、先輩方に指示を求められたことなどが蘇りました。
仕事の進め方も一々に訊ねることも出来ず、先輩方のやり方を観察して取り入れたことなど昨日のことのようです。

それから現在の会社でも、一から自分のスタイルを築き上げて来て、現在に至っていることなどを思えば、若かりし頃の経験が生きているかも知れないと感じます。
つまりマニュアルも前例も無いなかで、自分で工夫し失敗や成功の経験を生かしながら社会人として成長して行って欲しいと友人は考えたのです。
大企業に入ればマニュアルも確率されていて、考えることなく問題を処理できるので楽でしょうが、その分人間としての成長も仕事をする充実感も少なくなるのです。
自分で苦労して創意工夫を重ねれば、様々なことがらがその人の血肉となり、生きて来るのです。ところが他人の敷いたレールを走るだけでは、何も身に付かず、その場限りの知識や経験になってしまい当然ながら後に生きてくることにはなりません。

 そんな話題から私たちの話しは次第に政治的なことがらへと移って行きます。今の政治を動かしているのは政治家ではありません。政治家たちは、単にストーリーに沿って茶番劇を演じているだけです。問題は、そのストーリーを描いている官僚にあります。
彼らは自分達こそがこの国を動かしている、支えていると自負しているに違いありません。
しかし、その官僚の質的な劣化が著しいと私たちは感じています。この劣化していると感じる部分は、知識や学力のことではありません。
人としての矜持とか、他者への慈悲、大きな視点などが欠落していると感じるのです。どうも自らの組織を守ることに汲々とするばかりで、本来の自分達の使命・仕事の本質というものを忘れ去っている感があります。

 無理もありません、小さい頃から勉強漬で良い大学を目指し、良い職場を目指して来た人たちですから、ある意味で世間の実態を知らずに官僚に成るからです。
整えられた環境で育てあげられた彼らが、社会の実態を知る機会もなく行政を担う立場に成るのですから現在のように民衆の生活から乖離した政策を打ち出すのも仕方のないことです。つまり、そこには民衆の生活に思いを巡らす想像力の欠如が発生します。
そこで、友人と私の提案は、キャリア官僚に採用された若者たちには、3年程度の民間企業への出向、しかも中小企業の第一線の現場に限り勤務してもらうのはどうでしょうか。
受け入れる中小企業でも、優れた頭脳を得ることが出来ますし、各省庁の幹部候補たちも社会の実態というものを経験し、知ることが出来ます。

 机上の空論から出た発想では、良かれと思っても返って人々の不利益に繋がる場合もあります。十何年か前に制定された有給休暇の買い上げの禁止などは、この典型かも知れません。発想する方は中小企業の従業員が有給休暇を取れるようにしたい、と思ったのでしょう(善意に捉えて)が、実態は有給休暇が取れずに、流れた分もお金に成らず労働者たちの不利益以外の何者でもありません。
制度が変わろうとも休めないという中小企業の実態を知っていれば、恐らくはこのような馬鹿な門切り方の発想はなかったはずです。
 先の提案のようにすれば、頭でっかちで発想力や想像力の貧しい幹部候補は、実社会について行けませんからふるい落とされるでしょうし、優秀な人物には更に磨きが掛かります。一石二鳥ではありませんか。

頭脳ばかりでは何も生まれない、お金ばかりでは鉛筆一本も作れない、各事業に携わる現場の人々が居ない限り、官僚や政治家たちは何ひとつ生み出せないということに気が付いて欲しいと切に願います。そして、各々の分を守りながらも、より広い視野で社会を捉える人材の育成が急務であると感じます。
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by levin-ae-111 | 2012-08-16 01:13 | Comments(0)

軍法会議

 戦後に行われた戦争犯罪に対するGHQの裁判は、俗に東京裁判として有名である。戦後から現代にかけては、この裁判が不当なものであったとする意見も発見されている。
しかし、ここではそれとは別の法廷の話しである。ここで取上げるのは、軍法会議と俗称される自国軍内での犯罪に対する法廷のことである。軍隊はそれ自体で完結しており、あらゆる事柄が世の中から独立している機関である。従って、軍隊内部の法的な措置も例外ではなかった。
太平洋戦争中には、実に多くの軍法会議が開廷されたという。そして多くの場合は、死刑が宣告され味方の手で1万人以上もの兵士が処刑されたという。

特に戦況が悪化した大戦末期には、実に多くの逃亡兵が出て、軍法会議が頻繁に行われたという。NHKの番組では馬場元法務中佐の残した資料から、その実態を探ろうと試みている。馬場東作元中佐は東大を卒業し、司法試験に合格し海軍の法務官になった。
当初、法務官は文官であり軍事法廷に於いて裁判官の一席を占め、武官である他の裁判官へ法的なアドバイスをする役割だった。それが法改正により武官として任官される事になり、馬場氏も最終的には中佐という位になった。
馬場氏は戦後弁護士へと転じ、後には日弁連副会長も勤めた人物であったらしい。

 終戦と同時に、本国の軍事裁判に関する資料は焼却され残っていないが、フィリピンで法務官を務めていた馬場氏は自ら記した資料を密かに持ち帰った。
戦況の悪化と供に次第に島の奥へと追い詰められた日本軍は、食料、医薬品、弾薬の欠乏から軍規も乱れ犯罪が相次いだという。
上官殺し、窃盗、逃亡、死体損壊などであったが、中にはろくに法廷も開かれず処刑、もしくは必死の突撃隊として出され死亡した兵士もいた。

処刑された兵士の遺族は、国賊として肩身が狭い思いを強いられた。昭和30年代に遺族年金の手続きを望んだある遺族は、故人が処刑された国賊であるからと手続きを拒まれた。
またある遺族は未だに記録上、犯罪者として処刑された故人の汚名を晴らそうと県庁に掛け合っている。その方の叔父にあたる故人の裁判、処刑に関する記録は一切存在していない。戦時中の処刑されたという報告が、今も生きており県の記録には戦死ではなく刑死として記録されている。叔父の名誉が回復されない限り、戦争は終わっていないと齢80歳近い遺族の方は述べておられた。

 ある兵士は食料を探しに行き、部隊を離れた。数日後に連れ戻され、軍法会議の後に処刑された。馬場元中佐の記録では、死刑に値する罪ではなかったが、その兵士が英語が堪能であったばかりに死刑にされたという。
生かしておけば、敵に通じるかも知れないとでも疑ったのだろうか。それにしても番組では当然存在するはずの弁護人について、全く触れられていなかった。日本軍では弁護人の存在なしに裁判が行われたのであろうか。

 想像するに狂気の戦場では、恐らく裁判など開くことも無かったのだろう。江戸時代の無礼討ちのごとく、その場で射殺や斬殺された兵士も居たに違いない。
実質的に裁判など行う余裕がないのが実態であったろう。馬場中佐も戦場での兵士の処刑は、これを咎めないという法務官としての見解を各部隊に通達している。
それにしても、味方により殺された兵士の何と多いことか、そして国賊の身内として白眼視された遺族の苦悩も計り知れないものがあったことだろう。

 私の祖父は日華事変で没したと聞かされているが、子供の頃に祖父の死について訊ねた私に吐き捨てる様に祖母が言ったことがある。酒を飲んで暴れるから、味方に処刑されたんだよ。
それが果たして本当であるかどうかは分からないが、その言葉には若くして夫に先立たれた祖母の苦しい想いが込められていた事だけは確かだったと思う。
私はもし祖父が本当に処刑されたのであれば、酒乱などではなく無抵抗の中国人を殺すことを拒否したのであろうと思いたい。
会ったこともない祖父に対する私の想いがこうなのだから、自分の息子や夫、恋人や友人が処刑されたと聞かされたならば、どれ程の衝撃と無念な気持ちがこみ上げるか想像も出来ない。

 空襲や玉砕、その陰に隠れてはいるが、味方の手に掛かって亡くなった多くの兵士たちの冥福も心から祈りたい。戦争そのものが無ければ、生を全う出来たであろう多くの人々が、生かされていれば世界中でどれほどの偉大な仕事を成し遂げたことだろうか。
それは人類全体の大いなる損失である。
戦争とはそれ程に理不尽で無駄なものであると、改めて心に刻み付けたい。
合掌
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by levin-ae-111 | 2012-08-15 01:08 | Comments(2)

友人との対話

a0160407_8321240.jpga0160407_8323694.jpg 私の体験上の話しですが、同僚の中にはどうにも話しがかみ合わない人がいます。例えば家を建てる計画をしているとします。建ぺい率はどうするか?その次はどちら向きに建築するか、そういう基本的な話しをしている時に、キッチンは?トイレは?などという事を話しだす、そういう今の問題とは少し違う次元の事を言い出すのです。

 それは後から詳しく設定するからと言っても、同僚たちは頑として譲りません。余りにそれを主張するので、最期には会議の内容全体がそつらに引きずられ曖昧な結論しか得られない、何てことは日常茶飯事です。
これを友人に話したところ、俯瞰が出来ない男が増えていると言いました。つまり状況を大きな視点から捉えられない、そういう男性が増加していると言いたいらしいのです。
そして彼らは自分のアプローチの仕方が間違っていると感じていないし、周囲もそういう人が多いので間違いにも気付かないのだと主張します。

 更に今の日本人は、とてもヒステリックになっているとも言いました。それはゴシップ的な事でその人の業績も、やろうとしている事の有益性も無視し、ゴシップだけでその人の全てを悪いと決め付ける傾向について述べたことです。
昔は「英雄色を好む」との諺もある様に、人の評価、殊に政治に携わる人物の評価は業績が最優先されていたものです。天下国家の為に良ければ、ゴシップなど無関係であるとの判断が幅を利かせていたものです。
誤解の無い様に申し上げますが、ゴシップなど一切気にする必要はないと言っているのではなく、必要以上にそれに拘って大事を為す可能性のある人物を葬ってしまうのは残念な事だと言いたいのです。

 友人との話しは多岐に及び、スピリチュアルな領域に達します。神々の依頼で世界を廻り、壮絶な祈りの旅を続けられた方の話しです。その業績は素晴しく、祈りによる光の柱を何本も建てられました。これで地球は大丈夫と、多くの神々から感謝の言葉が述べられたと本には書いていました。
しかし、現実世界は酷くなるばかりで、祈りの効果らしきものは一向に現れていません。これはどうしてなのか?などと、いうことについても話し合いました。
 私は神仏の存在を信じていますが、その声を聞くことの出来る人間は60億もの人がいても何人も居ないと思っています。

 従って、簡単に神仏の声など聞くことは出来ないだろうと推測します。スビリチュアルのように不確かで確認しようも無い事柄について、断言する人は信用できないと考えます。それは嘘であるとは限りませんが、飽くまでもその人の主観的な世界での出来事でしかないからです。私もすこしばかりチャネリングが出来ますが、それは自身の内なる声であって、神仏からのメッセージとは考えません。

 そんな事を話しながら、大岩山日石寺へ行ってきました。そこは富山県上市町にあり、自然石に穿たれたお不動様で有名な寺です。日頃は閑散としているのでしょうが、お盆だからか参拝の人で込み合っていました。
その本堂で石に彫られた巨大なお不動様を見詰めながら、参拝する人々を眺めていました。恐れを知らぬ態度の人々がいる一方で、丁寧にお不動様を礼拝される方々もいらっしゃいました。人の心は様々ですから、神仏に対する態度も様々だと感じた一日でした。
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by levin-ae-111 | 2012-08-14 08:33 | Comments(2)

久々の面白い夢

 昨夜、ごろ寝しながら「ツタンカーメンを殺したのは誰か?」とか何とか、そんな番組を観ていた。休みに入り、集中力もなく、私はついつい転寝してしまった。
番組の内容は、古代エジプトの話しだった。私はそれを聞き流しながら、退屈して眠ってしまったらしい。番組が辿り着く謎の答えを知っていたからだ。

 転寝しながら、私は身体が沈み込むような感覚に襲われていた。暗い空間の中へ沈みながら、私は浮上を試みた。影の様な私の身体は、落ちて行く感覚から脱出して、徐々に浮き上がって行った。
暗い空間の中で辺りを見ると、私はどうやら石造りの閉じられた空間の中にいるらしい。石組みの壁は滑らかでツルツルに磨きあげられており、継ぎ目も見事で隙間は無い。積み上げられた石は、レンガ程度の大きさで精密に組み上げられていた。

私は壁に手をつき、質感を確認してみた。そして、その壁をすり抜けられると考えた。
ゆっくりと頭から壁へ入り込み、分厚い石の中を両手を使って泳ぐようにしながら、すり抜けて行く。少し抵抗がある、水よりも粘りがある感じだ。
暫くして光が見え、私は部屋の外へ出られた。
外には緑の丘が広がり、遠くの方まで見渡せ、丘のうねりが幾重にも重なって続いているのが見えた。

私が居た場所はひと際小高い場所で、私はその斜面の中腹あたりに立っていた。私は空を飛べる筈だ。深呼吸して、身体をゆっくりと前方に倒してみた。何とか浮けた。
背丈の短い草が生えている斜面を回り、丘の反対側へ回ってみた。そこには樹木が生えており、洞窟が口を開けていた。意外に広い洞窟の中には、何やら機械のようなものが見える。土や岩石で表面を覆ってあるが、その隙間からは内部でオレンジ色の溶岩のようなものが流れているのが見えた。

 私にはそれが何だか、余り良くない物だと思えた。自分のいる場所が、超古代の何処かは分からないが、砂漠ではない。しかし私にとってそこは、平和な場所ではなかった。
何者かが私を大勢で追って来る、そんな気がしていた。
私は身を隠しながら、さっき見たマシーンを破壊しなければと思った。でも、どうやって。
だが、その方法を本能的に知っていた。
私はマシーンのある洞窟に戻り、手をかざして念を集中した。
マシーンは暴走始め、出力が異常に急上昇し、振るえだした。やがて構造が急激な出力の上昇に耐えかねて、何箇所かが壊れ、炎が噴出した。洞窟は紅蓮の炎に包まれ、遂には大爆発した。

この夢にどういう意味があるのかは分からない。壁を抜けるとか、空中を浮遊するとかの経験は、私にとって特別な感覚はない。私の夢の中では、これらは普通のことだからだ。
ツタンカーメンの番組は面白くなかったが、録画しておいた細田監督の「時を駆ける少女」を観ている。その中で描かれている主人公の少女が、タイムリープする瞬間の表現が私が、夢の中で暗い空間に落ちていく感覚と似ていると思った。
ほんの数分の転寝の間に観た、変な夢のお話でした。
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by levin-ae-111 | 2012-08-12 10:06 | Comments(0)
 毎年、この時期になると戦争の事を考えてしまいます。太平洋戦争で日本は爆弾を抱いて飛行機ごと敵に体当たりする特攻を盛んに行いました。
その端緒は関大尉に率いられた「敷島隊」でしたが、この時に偶然にもアメリカ空母が沈んだことから、一度限りとされた特攻が次第に恒常的な作戦?(もう作戦とは呼べない)として繰り返されることになったのです。

 海軍の大西中将の発案であったと伝わっていますが、それは陸軍でも行われました。陸軍は沖縄沖に大挙して来襲した連合国軍に対して、鹿児島県知覧飛行場などから多くの若者を無謀な特攻へと送り出しました。
傷ついたのは死に行く若者たちばかりではありません。それを送り出す側の人々の心にも深い傷を残したのです。特攻で死んだ恋人を想い、独身を通した女性もいらっしゃいます。
 それから知覧飛行場などでは、特攻隊の世話係として多くの女子学生が動員されていました。
飛行兵たちが生活した三角屋根の兵舎の掃除やら、洗濯、食事の世話などが彼女たちの役割でした。

 現在に残されている写真には、特攻機を桜の小枝を持って見送る彼女らの姿があります。多感な少女時代を、自分達と大して年も変わらない多くの青年が死地へ赴くのを見送る、その心情は如何ほどのものであったでしょう。
 女学生たちの仕事は、特攻機を見送って終わるというものでもありませんでした。彼女らは遺品を整理し、散って往った若者たちの遺族へ手紙を書きました。
遺族の中には手紙の返信を書く人もいます。特攻隊の青年たちも遺書を残していますが、彼らは父母や縁者が必要以上に悲しまないように、家族へのお礼と空元気とでも言うべき勇ましい決意をしたためた内容が多いようです。

 遺族の中には自らの息子が特攻へ赴いたことも知らず、戦死広報や女学生たちの手紙が届いて初めて知ったという方々も存在したようです。
遺族からの息子の様子を知りたいという要望に、14歳前後の少女たちは一生懸命に詳しい様子を手紙に書き送ったといいます。中には書簡の往復が何度も繰り返された場合もあったのです。
青年たちの日常生活の世話をした女学生たちは、最も彼らの真実を身近で見て、彼らの心情を感じていたのです。一人生き残って帰還した特攻隊員が、無念がって泣いていた。しかし夢に隊長が現れて「今度は俺が導いてやる」と告げたと嬉しそうに話していた、などということまで彼女ら遺族に伝えていたのでした。

その彼女らも悲しみで一杯の自らの心を律して、遺族の為に、特攻隊員の為に自分に出来る精一杯の仕事をしたのです。
時代とはいえ女学生たちも、辛く苦しい想いを強いられていたのです。その彼女たちも既に年老いてしまいました。
原爆、特攻、空襲、世界中の多くの人々の人生を狂わせた戦争は、絶対に忘れては成らない二度と有っては成りません。
二十世紀は二度の大戦に象徴されるように「戦争の世紀」といえます。新たな希望を抱いて始まった二十一世紀も、きな臭い紛争が続いています。
人間とは各も学ばないものであるのか、各も愚かなものであるのか、と失望を禁じ得ない感があるのですが、語り継がれる物語から何かを学ぶことが出来れば犠牲者たちの御霊も浮かばれるのではないでしょうか。
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by levin-ae-111 | 2012-08-11 10:30 | Comments(0)
 私達にとって最も重大で重要なのが、この「死」の問題だ。この世に生を受けた瞬間から、私達は死に向かっての歩みを始める。
それは誕生、成長、成熟、老いなどと呼び名を変えながらも決して立ち止ることはない。別な言い方をすれば、生きているとは一瞬一瞬が永久に返らない時間の中に存在しているということでもある。

 物質的なものは常に変化する。どれほど不変に見えようとも、常に振動する波動の一瞬の煌きであり、それは何時も不確かなものである。
人間存在の物質的側面である肉体もまた、この不確かさから逃れる術を持っていない。
だが人間存在には人間を人間たらしめている精神が宿っている。この精神が宿る故に人間たり得るのであり、それ以外の何者でもない。
 死とは物質的側面である肉体から、宿主である精神が分離する現象である。
精神とは無限の意識のわけ御霊であり、永遠の今に存在する唯一の実在の子供である。

実際問題として死んだらどうなるのだろうか。私は一度だけ意識と身体が分離したと思える経験がある。その状態での私には周囲を明瞭に見渡せる視力と、思考力・記憶力があった。
下を見ると、身体は殆どオートマチックに日頃の仕事をこなしていた。
この時、私にとっての主体は意識の方であり、正直に告白すると身体には何の想いも感じていなかった。
それよりも爽快な開放感で、戸惑いながらもウキウキした気分だった。よくシルバーコードで魂と肉体が繋がっているとされるが、その時コードは見えなかった。
厳密に言えば体脱体験ではなく、一種の意識拡大現象だったのかも知れない。しかし直前まで感じていた物質的な不快感、暑さ、ガスの刺激臭、製品の重量、汗の流れる感覚、近視で貧弱な視力の弊害などは一切感じていなかった。

 この体験以降、死とはこの状況が継続することではないか?と思う様になった。
少なくとも身体と意識は別々に存在し、肉体の死で意識が消えてしまうこともなさそうに思えた。
それ以来、ちょっぴり死に対する恐怖が減った。

肉体と意識が別々な存在だとしたならば、死後に肉体が朽ち果てても意識は存続すると考えられるのではないか。
意識は時間や空間をも内包しており、未来を描くことも過去を振り返ることも可能だ。
つまり意識とは肉体に宿っていても基本的に自由であり、存在が知られているどんな物質的なものよりも大きく、或いは小さく、その速度は無限大で、時間、空間をも包みこんでしまう存在といえないだろうか。しかし、決して難しく考える必要はない。

私が誰かを想えば、意識は既に誰かの傍にいる。私が何処かを考えれば、私は既にその何処かに佇んでいる。戦国時代に想いを馳せれば、時を遡り戦国時代に居る。
こんな風に考えれば、意識とは何かを知る手がかりに成らないだろうか。
私が意識とは基本的に自由だとし、時間空間をも内包しているとしたのは、これらの事柄を指している。

詭弁だと思われるかも知れないが、自己の内に存在しない事柄や概念を人は理解出来ない。
人が時間、空間、歴史、天体などを認識するというのは、人の意識の内部にそれが存在しているからだ。内なる意識に存在しないものは、例え目前にそれが在っても認識できないし想像さえも不可能だろう。

また誰にでもあるだろう卑近な例では、楽しい時は早く過ぎるが、苦しい辛い時は長く感じられることが挙げられるだろう。時計の進み方が違うのではない。
意識が認識する感覚が異なることにより、その人にとっての時間が縮んだり延びたりするからだ。

この様に考えると意識とは時間、空間、距離などの物理的事柄から独立して存在する能力を持っていると言わざるを得なくなる。従って肉体と意識は別物であり、肉体の死によって全てが終わり、無に帰すなどと考えることに無理があるのではなかろうか。
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by levin-ae-111 | 2012-08-10 05:58 | Comments(4)

原爆を描いた画家


 先の太平洋戦争では、日本が世界で唯一の被爆国となる暴挙が行われた。8月6日に広島市に、9日には長崎にアメリカによって人類初の原子爆弾が投下された。
広島にはエノラゲイ、長崎にはボックスカーと名付けられたB-29により投下され、悪魔の爆弾が炸裂した。
地上の惨劇は凄まじく、筆舌に尽くし難い惨状となった。その様子をリアルに描いた画家がいた。その画家とは丸木俊(とし)で、自らも被爆しながらも原爆の惨状を描き続けた。
殊に一連の「原爆の図」は、観る者に衝撃を与えずに置かない。

 俊は1912年に北海道で生まれ、旭川高等女学校を卒業後、千葉で教職に就く。1937年には外交官子弟の家庭教師としてモスクワに滞在もしている。二度目のモスクワ滞在の時に夫位里(いり)と結婚した。位里さんの実家が広島市街から2キロほど離れた場所にあり、新型爆弾が広島に投下されたと知り、心配して夫の実家に駆けつけ、そこで暫く過ごした。
その時に残留放射能により被爆し、自らも苦しみながら夫と供に「原爆の図」を描くことを決意したのである。

 夫の位里は水墨画で俊は油絵であり、二人は「原爆の図」を描くに当たって、手法の違いなどでぶつかり合いながらも、共同でこれを描き上げた。
「原爆の図」は1948年に構想し、1950年に1~3部を完成、1982年には15部を完成させている。「原爆の図」以外にも絵本「ピカドン」や「アゥシュビッツの図」「沖縄戦の図」「水俣の図」「水俣・原発・三里塚」などの作品も残している。
彼女は最初から原爆の絵を描いていた訳ではない。やはり広島で目撃した想像を絶する光景が、彼女を原爆画家に変えたのだ。
「原爆の図」を初めとする活動により、俊と位里はノーベル平和賞候補に挙がったこともある。

「原爆の図」は1編が縦1.8メートル、横が7.2メートルの屏風仕立てで、15部までの連作である。第一部の「幽霊」に始まり、第十五部の「長崎」で完結している。
これを世界20カ国以上で巡回展示を行った。
惨たらしい場面が殆どだが、平和への願いを込めた「署名」や「とうろう流し」なども一連の作品に組み込まれている。

 私も何時だったかテレビ番組で丸木俊の事を知り、作品を知った。その絵に非常にショックを受けたのを覚えている。ある意味で写真やフィルム映像よりも衝撃的であり、より鬼気迫る迫力を感じさせられた。広島で目撃した惨状が、彼女中の何かを変えてしまったのだろう。それ以前の彼女の作品は、やはり訪れた土地の人々が描かれているが、後の「原爆の図」の画風とは全く異なっていた。

 毎年、広島・長崎の慰霊祭に始まり、終戦の日を迎える度に多くの人々の犠牲に想いを致し少しでも後世に伝えねば成らないと感じる。先日とりあげた大場栄大尉の映画の一場面(民間人に投降させることを伝える場面)で、大場大尉は「皆さんは必ず日本に帰られると信じます。無事に帰った暁には、少しでも我々兵隊のことを、この島のことを思い出してください。そうすれば、我々も日本へ帰れます」という様な台詞があった。
 それは私たちが思い出すことで、尊い犠牲者の方々の御霊が少しでも救われるという意味であろう。

戦争は私たちの祖父母やその前の世代の話しであるが、決して遠い時代の記憶であっては成らない。原子爆弾や放射能も決して忘れては成らないものだが、現在の原発事故に関する政府や東電の態度を見る限り、原爆もチェルノブイリ事故もスリーマイル島の事故も、全ての教訓が忘れ去られているかに見えるのは悲しい限りだ。
放射能の後遺症に苦しみながら「原爆の図」を描き続けた丸木夫妻の努力も、平和を心底から訴える鬼気迫る想いも、原爆の犠牲者の想いも、何もかもが踏みにじられている気がして暗澹たる気持ちになってしまう。今年も終戦の日が間近に迫っている。
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by levin-ae-111 | 2012-08-09 05:22 | Comments(0)

仮想バトルオブブリテン


 第二次大戦の有名な戦いのひとつに、バトルオブブリテンと呼ばれる英独の一連の戦いがある。ヨーロッパの殆どを制圧したドイツ軍は、いよいよイギリスへと迫った。
降伏勧告に応じないイギリスに対し、ついにドイツは上陸を決意する。
ドイツは上陸を敢行する前に、まずは空爆によりイギリスの空軍基地を潰しに出た。

 ドーバー海峡を越えて、連日のように殺到するドイツ軍機に一時は完全に押されるイギリス空軍。主な飛行場は修復する間もなく壊滅的な被害を蒙っていた。
それでも攻撃目標が軍事施設に限られていたため、飛行機の生産能力は温存できていた。
イギリスに足りないのは飛行機ではなく飛行士だった。イギリスはスコットランドやポーランドから兵士を集め、パイロットとしての教育を施していた。しかし、彼らはまだ実戦に出せないと思われていた。

 対するドイツ空軍にも問題が無かった訳ではない。それはハインケルやシュツーカーをイギリス本土上空まで護衛する戦闘機、メッサーシュミットの航続距離が短いことだ。
イギリス上空で爆撃機を護衛できる時間は、僅かに30分程度で、それ以上いると燃料切れで帰還できなくなるからだ。
ドイツの爆撃機は脆弱で、アメリカのB-17やB-24のように大型でもなかった。どちらかと言えば、日本の爆撃機に近い。

 それにも拘らずドイツはロンドン空爆を始める。初めは夜間爆撃だったが、次第に昼間爆撃へとエスカレートして行った。それは対空砲火だけが敵であったドイツ爆撃機に、更にイギリス戦闘機の脅威が加わるということである。 
イギリスは対空レーダーでドイツ軍の襲撃を察知し、一早く待ち伏せしてドイツ軍に襲い掛かった。戦闘機の護衛は当にできない。
ドイツ爆撃隊の被害は急激に増加して行った。上陸準備をしていたドイツ陸軍も、遂には上陸を諦めざるを得なくなった。
無敵のドイツ・ルフトバッフェが、イギリス空軍の前に敗れ去ったからである。

敗因は無論、戦闘機の護衛を十分に得られなかったことにある。科学技術の進んだドイツにしては、戦闘機の航続距離が短いのは意外な気もするが、そもそもの想定が陸の上空で戦うという設定であったからだろう。
そこで私は思う、もしドイツに日本の戦闘機が有れば、バトルオブブリテンに負けることはなかったかも知れないと。
海洋国家日本は、戦闘機も爆撃機も、その飛行可能距離はドイツよりも長い。単発の零戦でも2000キロの飛行が可能だったし、戦闘機ではないが一式陸上攻撃機はインテグラルタンク(翼内燃料タンク)を装備して5000キロもの飛行が可能だった。

 それに零戦はイギリス空軍の主力戦闘機、スピット・ファイアやホーカー・ハリケーンを相手にしても十分に戦える実力を持っていた。
そうなると、イギリス上空での爆撃機の援護が十分に可能となり、イギリス空軍に敗北することは無かったかも知れない。
でも新型のエンジンを積んだタイプには、苦戦したかも知れないが。
あらゆる科学技術で日本の数歩も先を歩んでいたドイツが持っていたこの意外な盲点が、イギリス空軍との闘いの趨勢を決したとは過言だろうか。
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by levin-ae-111 | 2012-08-08 05:29 | Comments(0)