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by levin-ae-111
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 今年も日本人にとっての終戦の日がやって来る。終戦(敗戦)を知って、当時の人びとは様々な思いに翻弄されたことだろう。しかし無条件降伏をして武装解除が成された後でも実際に戦闘行為が行われ、多くの戦死者が出ていることも事実である。

昭和2089日ソ連は不可侵条約を破棄すると、当時日本領であった樺太(サハリン)へ向けて進軍を開始した。真岡、大泊への上陸を目指して来襲した。

当時の樺太には40万とも言われる民間人がおり、北海道への疎開を初めていたが、ソ連による攻撃で疎開船の被害も出ていた。

日本軍守備隊と民間人による義勇兵は必至の抵抗を示し、多くの犠牲を出しながら民間人の脱出を援護した。真岡では電話交換手の女性達が最後まで業務を続け、ソ連軍が迫ると全員が服毒して自決した悲劇が伝わっている。

千島列島北端の島、占守島(しゅむしゅとう)でもソ連軍との戦闘が行われ、戦車第11連隊などの奮戦でソ連軍にも多くの被害を与えている。

この様な実戦でなくとも、多くの船乗りや軍人が降伏後も任務を続けていた。特に長く引きとどめられたのは機雷を除去する掃海部隊の人々であった。日本全国の港湾を封鎖する為に空から蒔かれた機雷を除去する危険な任務であった。この任務は数年に渡り続いた。

また他の部隊では除隊した隊員を集め、無事な艦船を運行し南方などに取り残された国民の収容に駆り出された。軍艦に限らず民間船でも生き残った大型船も、復員船として動員された。連合国からの攻撃は無いものの、機雷の浮かぶ海域を航行しなければ成らず非常に危険なものであった。

これ等の例だけでなく、復員せずに東南アジアに残った日本兵たちは原住民と一緒に残酷な西洋人の植民地支配から独立する為に戦った。

更に広島、長崎で被爆した方々や各地の空襲を体験された人々、特攻隊を見送った人々、大切な家族を失った人々などにとって、時間は止まったままなのかも知れない。

昭和20815日は日本がポツダム宣言を受諾した日であり、現実的には決して終戦の日ではない。降伏してもなお押し寄せる敵軍から同朋を守る為に命を捨てた人々が居たことを私達は知るべきである。安全な航路確保に終戦後も従事し、危険な作業を担った人々が居たことを知るべきである。

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                       *写真はネットからお借りしました。


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by levin-ae-111 | 2018-08-14 22:42 | Comments(0)