身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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富山の伝説・Ⅲ

 名将「上杉謙信」が越中で敗走していた。あの戦上手な名将が越中の地で無名の武将に敗れて、慌てふためいて拠点の魚津城へと逃げ帰っていたと伝説は語る。
無名の武将がとった作戦とは、如何なるものだったのだろうか。
それは圧倒的な兵力で侵攻する平家を、倶利伽羅(くりから)峠で木曽義仲が敗走させた戦術を彷彿とさせる作戦だったらしい。

魚津城(富山の東=新潟県に近い)から領土拡大を目指して進発した謙信は、立山町高原野に陣をしいて広嶺城の攻略に掛かった。
攻められた城主の寺崎民部左衛門は、現在の高山市に居住する上野勝重に救援を求めた。
勝重はすぐにこれに応じて、兵を引き連れて来援したが雨が降り出した。

謙信が陣をしいたのは、城との間に常願寺川を挟んで対峙する場所だった。常願寺川は立山を源流とし、流れが急な暴れ川として知られている。
そこへ降雨とくれば、謙信は必ず急いで渡河するに違いないと読んだ勝重は一計を案じた。
勝重の作戦とは周囲の集落から牛を集め、兵力を二手に分け上杉勢の正面と背後から牛を先頭に突撃する作戦だった。

予想に違わず上杉勢は出水しない内に渡河しようと動き出したが、折から夕闇が迫り浅瀬が判然とせず戸惑っていた。そこへ謙信の本陣めがけて角に松明を灯した牛を先頭にした勝重の兵が、正面と背後から突撃する。この攻撃は完全に奇襲となり、不意の敵襲に驚いた謙信は抗戦もままならず、僅かな残兵をまとめて慌てふためいて逃げ出したという。

天晴れ、郷土の武将たち。これはまるで甲子園の優勝候補に弱小の富山県チームが奇跡の勝利を得たようなものだ。今年も球春が到来した、もうすぐ始まる春の選抜大会が楽しみだ。
富山からも高岡商業が参加する、頑張れ高商ナイン。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-08 04:53 | Comments(0)

ワンコインの古代史

 久しぶりに本を買いました、しかもコンビニで。
関裕二氏著の「古代史、封印された謎を解く」です。内容は卑弥呼から桓武天皇までと範囲がけっこう広いものです。関心もあるし休みで暇なので、つい買ってしまいました。
正史として扱われている事実がいかに歪められているか、著者の研究を基に様々な角度から検証し推理されています。この類の本は沢山あるのですが、要は支配権を握った時々の王朝により真実の歴史が歪められ、捏造されているといった内容です。
一々にモットもと感じるのですが、この時代になっても知るべき歴史の真実が解明されておらず、それが日本人の事なかれ主義な性格と相まって現代日本のあやふやな歴史観へと繋がっていると感じます。
この本では最後に日本古来の宗教観にも触れていますが、著者の見解で日本本来の宗教観は神道ではなく修験道にこそ受け継がれているとしています。著者によれば神道とは「藤原神道」であり8世紀に創作されたものとしています。
本来は男神であった天照大神もこの頃に女神に変更されたとしています。確かにそうかも知れません。陰陽でいえば陽であるはずの太陽が陰である女性を象徴としているのは確かに変です。月こそは女性性の象徴だと思うのですが、月読み命は余りに軽視されていて、神話でもチラッと触れられている程度です。
まあどちらにしても、確たる歴史を知らない日本人が不幸であることに変わりはないと感じます。自分たちの歴史を知らず、その時々の権力の説く尤もらしい史観に操られてきたのが日本人ではないでしょうか。
先の大戦では「神風」の美名の下に幾多の若者が命を散らしています。この神風とは鎌倉時代の元寇を、幸運にも台風により切り抜けられた史実をいいます。偶然にも襲来した台風が船で待機していたモンゴル帝国軍に大打撃を与え、撤退へと追い込んだのでした。鎌倉時代当時「神風」と呼称したかどうか知りませんが、軍部はこの史実を利用して若者たちに国を守る「神風」となれ、と強要したのです。

 現在でも日本人の歴史的視点の欠如が、大戦から60余年を経てなおもアジア諸国から軽蔑され続けている原因と思えてならないのです。明治維新以来、列強に追いつけ追い越せで走り続け、日本人らしさを捨て続けてきました。維新の開国以後は日本人を知った世界の人々は、その穏やかさ、教養の高さ、礼儀正しさ、親切さなどに驚き高く評価していたのです。その頃の残光が、湾岸戦争勃発の折に手を束ねていた日本政府に代わってトルコ共和国が日本人の脱出を命懸けで手助けしてくれた原動力となりました。
トルコは首相自らの指示で現地日本人の救出にトルコ航空機を飛ばし、日本人を救出してくれました。その理由は遥かな昔に日本で遭難したトルコ軍艦の乗員を漁村の人々が助けていたからです。貧しい漁民たちでしたが、自らの食物も救出したトルコ人に差し出しました。後には寄付を募り、乗組員の遺族へ渡したりもしています。この恩義を彼らは忘れていなかったのです、だから命懸けで日本人を救ってくれたのです。この世界に輝く先祖の偉業を歴史では教えていません。
助けに向かったトルコの人々は無論、知っていました。飛行機のクルーたちは政府の呼びかけに応え、志願してイラクに向かったのでした。救出された日本人は「何故にトルコ航空?」と思ったことでしょう。
また大戦中の総領事「杉原千畝」氏が手書きのビザを発行し続け、多くのユダヤ人の脱出を助けた事実を何故、教科書に載せないのでしょうか。外国、殊にユダヤの人々の間では、あのシンドラーと並ぶ恩人として今もなお賞賛されています。杉原氏は帰国後に裏切り者として蔑視され、不遇のうちに生涯を終えています。彼は日本人としてより、人間として成すべきことを成したのでしたが、その根底には良心に忠実であろうとした気高い日本人の本来の姿がありました。
このような歴史的事実をしっかりと学び、自分たちが何者であるかをしっかりと知らねばなりません。これは民衆に限らず政治や行政を指揮する人々にこそ必要です。
自己の基盤に確たる民族の歴史が存在すれば、国際問題への対応も異なってくると思います。それとも、国民が自国の正しい歴史を認識することが、何ら加の不都合をもたらすのでしょうか。
歴史は所詮過去の出来事といわれるかも知れませんが、それなら何故に歴史学が存在し私達の興味を引き続けるのでしょうか。何故に過去の出来事の真実が明かされないのでしょうか。
自分たちの歴史を知らないことは、精神的に貧しいとことと感じます。精神的貧しさは誇りを持てない人間へと繋がります。
現代の様々な問題の根底には、誇りなき日本人の姿が見える気がするのです。

*mixi日記のリバイバルです。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-07 20:20 | Comments(0)

山々の色合い

 今朝は雲が濃く青空は見えなかったが、比較的視界が良好でいつもの通勤コースからは意外に遠くの山並みまでが見通せる。
国立公園をテーマにした二色刷りの記念切手シリーズを思わせる景色は、濃紺の山並に白い残雪のコントラストが美しい。道路の付近は冬といえども天然色の世界が広がるが、山並はモノクロームの世界の様にしか見えない。

しかし、よくよく観察すると濃紺の部分と薄茶色の部分が存在していて、最初はその色合いの違いが不思議で成らなかった。不謹慎かも知れないが、運転しながら考えた。
そして閃いた!!濃紺の部分は常緑樹で薄茶の部分は葉を落とした落葉樹だ。そして更に観察すると、圧倒的に常緑樹が多い。それは自生しているものでなく、植林されたものだ。
尾根伝いにもギッシリと植林された杉からは、もう暫くすると大量の花粉が飛ぶ。

幸いにも花粉症は発症してはいないが、それでもここ数年はムズムズし出している。いつか観た番組で、ニホンザルも鼻水と涙で顔をクシャクシャにして花粉症で苦しんでいた。
戦中戦後を通して奨励された植林だったが、やはり自然を破壊した付けが廻ってきた。
花粉症だけでなく不自然な樹木の分布が土壌の保水力を弱め、養分の少ない痩せた土地が増加する要因となった。山が痩せると海が痩せ、魚の分布にも影響を与える。

山からの養分豊富な水が流れ出し、近海ではその養分を糧にしたプランクトンが発生する。
それがアミや小魚を増やし、それを餌にする魚が集る。そんな風にして海の食物連鎖が保たれている。
落葉樹の落とした枯れ葉は細菌により分解され、腐葉土となり植物を育て降雨を陸地に溜め込む役目をも果たす。「ぶな」や「みずなら」などの実は小動物の餌にもなり山での食物連鎖の元にもなっている。
山並の単純な色合いの違いが及ぼす影響は、少し考えただけでもこの様に重要な問題につき当たってしまう。完全無欠の自然の摂理には遠く及ばない人間の浅知恵を思い知らされる感が在る。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-07 06:58 | Comments(0)

富山の伝説・Ⅱ

 江戸時代の天保年間のこと、飢饉があり(1832-37)越中の国は八尾(やつお)に水口屋権兵衛という人物がいた。いろいろな道具の発明や改良が得意で、特に火土輪(ひちりん)が得意だったことから火土輪の権兵衛と呼ばれていた。
ある日、妻と畑へ大根を掘りに出かけたが、一本も残さず全て盗まれていた。しかし権兵衛は立腹もせずに、地面に手をついてペコペコ頭を下げて「ありがたい事だ、こちらからお届けするはずが、わざわざ持って行って下さった」とバカみたいな事を言っている。

妻が訳を尋ねると、権兵衛は自分が前世で人の大根を盗んだのに違いない。今日はこうして、やっとお返しが出来てこんな嬉しいことはないと、言い安心した顔をしていた。
その噂が町に流れ盗人は良心がとがめ、人知れず大根の代金を置いて行ったという。
自分の損を善意に解釈し、相手の罪を憎まないその態度は権兵衛でなければ出来ないことだと更に噂になった。その話しが殿様の耳に入り、権兵衛は城へ呼ばれ褒美を貰ったという話しである。

どうも身につまされる話しだが、私などはついグチる方なので権兵衛さんとは程遠い。
愚痴は幸運を遠ざけるだけでなく、不運をも招くと解っている積りなのだが忘れてしまう。
社会人になってから、幸運なことに愚痴の多さを指摘してくれる人が居てくれた。恥ずかしいことに指摘されるまで気づかなかった。確かに他人の愚痴を聞いていて、心地よいものではない。
それから愚痴が出そうに成ると、グッと堪える事が出来るようになったが、でも時々忘れてしまう。
精神世界を学ぼうと志ながら、何と情けないことか。この権兵衛さんの話は、伝説というより御伽噺である。しかし霊的真理を見事に表現している傑作である。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-06 08:50 | Comments(0)
 以前の日記で「輪廻転生」について書いたとき、総ては同時に「今」存在するという不可思議な説を伝えられたとおりに記した。しかし我々が重視し尊重する時間を否定するような仮説は受け入れ難いと感じていた。この様な初歩的なミスが存在する説は、やはり間違いであると言わざるを得ない。そこで、この点について質問を試みた。

Q:輪廻転生の説明で、時間を暗に否定したようなコメントがあったけど。

A:そのとおりだ、そう言った。それについて、君にでも理解可能な説明を考えてある。
第一に「時間」は一定の速度と方向性を持っているとする既成概念を捨てて忘れて欲しい。
本来「時間」の概念はとても流動的で、柔軟性に富んでいる。一言で言えば「相対的」な概念なのだ。

Q:相対的な概念だって、時間は絶対的なものだよ。

A:だから、それを忘れてくれと頼んでいる。続けるよ、良いかな?

Q:うん、判った。

A:最も簡潔に表現すれば、時間が移動する或いは流れるのではなく実態が変化するという事だ。「実態」とは君たちが認識し、感知することの総てだ。身体的、思考的、感覚的、霊的な総てのことだ。そして、それらが認識する総ての事柄を含んでいる。
時間的な感覚はこれらの実態が、現在を通過することで生まれるのだ。
「時間」は存在しない、真実は実態が存在しそれが変化する(常に変化している)ことで時間感覚が生じる。この感覚は各々の実態が所有する固有の振動数により、様々だ。

Q:そうだね、時間は一日の変化を単純に等分しただけだものね。

A:解ってきたかい。それから身体の持つ振動は時間感覚を遡れない、だが思考的に感覚的に霊的には可能だ。惑星「地球」もまた、連続する変化のさなかにある。
一日の概念や一月の概念、一年のそれもまた地球の連続的な変化を捉えている。
これは地球的な時間感覚であり、他の惑星では当然これとは異なる。時間的感覚は、その実態により異なっているし、例え同じ実態であろうとも状況により違ってくる。
君たちはこの事例を肌で感じているはずだ。とても単純な誰にでもある経験の中にそれは存在する。
身体的には一定だけれども、精神的なそれは体験する出来事によって著しく異なるのだ。
Q:そうか楽しい時は短く、苦しい時は長く感じるよね、時間って。

A:そうそう、この肝心なところは総ての変化は意識によりコントロールされているという点だ。極論すれば意識が総ての実態を創り、維持しているという事だ。
時間的感覚は意識が総ての出来事を感知し味わい、整理するために生まれるのだ。
しかし、これはあくまで物質次元の話しだ。物質的次元は無数に存在するけど、時間的感覚は各々の次元で固有のものなのだ。過去も現在も未来も、ある意味では同一の今に存在している。だって時間は存在せず、実態が変化するだけだからね。

Q:うーん、解った様な気もするけど、これだと何か説得力が無いよ。ただへ理屈で時間を否定しただの感じがする。実態が変化するという事は、過去の自分はそこに居ないんだよね。そういう事になるよね、過去の自分にタイムマシーンに乗って会いに行くなどは不可能なのだね。だって、そこには自分が居ないのだから。

A:「意識」はメモリーだよ。総ての出来事とそこから得た体験や感情、感覚の総てを記録している。だから過去にも君は居る。未来も同じだ、意識が創り出す世界には総てが存在している。「意識」はそれ自体で完結しているのだ。
つまり最初から完全だから完結している、だけど一部に流動的な部分があって、その一部は変更可能なのだ。

Q:以前に事柄はいつも同時に存在すると言っていたね、それから意識はメモリーだとも言った。今なのに記憶とは不可解だ。

A:そうだね、そこで僕の考えた例が役にたつのだ。それで君も納得してくれるはずだ。
いつか運命の章でゲームと言ったろう、ここではそのゲームが君の理解を助けてくれる。

Q:もうゲームは卒業したよ。

A:いやいや、まだまだ卒業できないよ。では、始めるよ。
君の好きなゲームのプログラムはCDに記録されている、それが君の手許に届いた時には総てがその中に納められているのだ。後は君がプレイするだけ。

Q:何が言いたい?

A:慌てないで。ゲームでは指先ひとつで様々な場面が出現するけど、時間経過も最初からそれに含まれている。つまりゲームの進行とは無関係に、予め総てが設定されていて一枚のCDの中に同時に存在している。過去と未来と現在が同時に「今」存在しているのだ。その事は、君たちが考える時間には一定の方向と速度があるとする認識を否定している。
ゲームの方が真実の時間概念により近いのだ。

Q:・・・ふーん、それでゲームの様なものだと言ったのか。宇宙の仕組みもそれに近いという事かい?

A:そうなのだ、僕達の宇宙の仕組みもそれに極めて近いのだ。ゲームでは内容の総てがCDに記録されていて、プレイャーの指先ひとつで何時いかなる場面でも出現させる事ができる但しプログラムの範囲内に限られるがね。
その範囲内である限りはプレイヤーの意思をキャラクターに伝える事ができる。
もう解っただろう、君たちや僕達はプレイヤーの様なものだし、同時にキャラクターでもある。

Q:何だかとても怒りを感じる。そんなものなのか、僕達には完全な自由は与えられていない、常に何者かの操り人形というわけだ。

A:違うね、何者かではなく自分が主導権を握っている。全知全能の君が、僕がそれを握っている。そんな風に感じるのは「意識」についての認識不足というものだ。
「意識」とは何かをもう一度考えてごらん、あらゆる機会にそれを話してきた。この会話は君の意識が自問自答しているのと同じだ。僕達は同じ意識の別々の一面だが、結局は同一の意識に変わりない。
だが総ての出来事は君と他の人々とでは異なる。例えいかに客観的に寸分たがわぬ出来事を目撃したり、或いは体験したとしてもだ。それが究極の意識が求める多様性だ。
一人ひとりの感覚の違いが無限の認識を生むのだ。

これに因れば私達は予め定められたプログラムの中で、ある程度の自由が保障されているらしい。そして、そのプログラムを書いたのは自分自身という事になる。
自己のプログラムが全体の枠(宇宙意識のプログラム)からはみ出さない限りは私達は存在が可能ということなのだろうか?
そして此処でいうところの「自問自答」は何重もの意味に捉えることができる。
「個の意識」としての多面性に加え、地球人の集合無意識、更には銀河レベルでの意識、最終的には宇宙創造の意識まで拡げて解釈が可能だろう。
メッセージは受け取ったものの、その内容には困惑するのみだし理解するには程遠い感がある。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-05 05:53 | Comments(4)

富山の伝説・Ⅰ

 昨日、図書館でまた興味を引かれる本を見つけた。大方は眉唾ものだが、一応は伝説として伝わっている場所や物の由来を書いてある。
本では伝承を場所や地名、人物など幾つかに分類されて記してある。
既に知っていたものもあったが、知らないものが多く面白く読み進めている。

佐々成政と愛妾「早百合(さゆり)」の伝説もその一つである。これは立山に自生する「黒百合」にまつわる悲しい伝説だ。
秀吉に反発した成政は柴田勝家の敗北により、越中で孤立していた。家康との連合に望みを掛けた成政は厳冬の北アルプス「立山」を踏破し、遠州へと向かう。
結局、同盟は成らず落胆して再び立山を超えて帰って来たのだった。富山城へ帰城してみると、愛妾の早百合が小姓と浮気をしていたとの噂を耳にする。

激怒した成政は二人の言い分も聞かず、小姓を切り捨て早百合を逆さに木に吊るし、一族ともども斬殺した。早百合はこれを非常に恨み「佐々殿には必ず仕返しして恨みを晴らす。立山に黒百合の咲く時、佐々家を滅亡させてみせる」と、言い残して死んだ。

秀吉に屈服した成政は、天正16年に立山の珍花「黒百合」を北の政所へ送ったところ、淀君の機嫌を損ね、それが原因で富山から熊本への国替えとなった。
この国替えは無論、淀君の怒りばかりが原因とは言えないが、キッカケには成ったかも知れない。元々は敵方であった越中を上手に統治し、地元の人々から慕われていた成政の手腕を秀吉は買っていたのだろう。
当時の熊本は土豪の力が強く、統治の難しい土地柄であったようだ。

その様な土地への国替えは、統治の上手な成政にとっても前途多難なものになった。
事あるごとに熊本の土豪たちが反発し、遂には収拾が着かない状況へと発展してしまう。
これが秀吉の耳に入り、成政は京へ呼び出され切腹を沙汰されあえなく果てた。
これが愛妾早百合の呪いに因るものかどうか定かではないが、立山にひっそりと咲く黒百合は悲運の愛妾「早百合」とイメージが重なるのかも知れない。

結果的には早百合の最後の言葉どおりの結果になったが、この伝説のキーワード「黒百合」が実際の出来事にも絡んでいたのでこの様な伝説として語られたのだろう。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-04 05:38 | Comments(0)

夢見の事

 プロフ写真の猫「ニニ」は居なくなって既に10年近く経つ。奴と私は不思議に通じあっていて、私の食事の時は必ず膝に乗ってきた。あるとき何かのはずみで膝から落ちそうになった。
 ニニはとっさに爪を出そうとした。しかし、一瞬ためらって爪を引っ込めズルズルっと床に落ちた。とても思慮深い猫で、私を傷つける事を悟って爪を引っ込め落下したのだ。流石にその時はすぐに抱き上げて、頬ずりをしたものだ。
 さて、そのニニとは夢で何回も会っている。極めつけはトイレに立った私の背後で黄緑色の大きな蛇が鎌首を持ち上げて、襲い掛かる寸前の体制をとっている。焦る私、その時サッと黒い影が蛇に飛び掛り一瞬で押さえ込んでいた。
黒い影の正体はニニである。蛇の頭を前足で押さえつけ、胴体に噛み付いていた。カクシテ私は危機から救われたのだった。そんな夢を数日の間に二回も観た。驚くほどの鮮やかな黄緑色の大蛇は、体長2メートルくらいは有っただろう。ニニに会えたことや蛇の色から、夢は忘れえぬ記憶となっていた。
ところが後日TV番組で同じ蛇が紹介されていた。グリーンマンバ、世界第二位の猛毒を持つ蛇だという。夢とはいえ、噛まれていたら現実に何か悪い事が起こっただろうか?ニニはそんな化け物蛇をいとも簡単に制圧していた様に見えた。
あの世は霊性の世界だ。そうであればニニは猫としてはかなり霊格の高い猫なのだろう。この世で亡くなった者を思い出し、称えるとそれは亡くなった者にとっての力になるといわれている。亡くなった親族や友人を思い出してあげる事が供養になるとも。時々は思い出の中で奴と遊んでみようと思う。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-03 05:32 | Comments(0)

多太神社の兜

 「むざんやな兜の下のきりぎりす」これは、松雄芭蕉の句である。
この句は芭蕉が石川県小松市の多太神社を訪れた時に詠んだものだ。神社には斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が、篠原合戦の際に着用していたと伝わる兜が奉納されている。
それを見た芭蕉が老齢にも関わらず、合戦に参加し戦死した実盛を偲んでこの句を読んだ。

倶利伽羅(くりから)合戦で敗れた平家軍だったが、平維盛(たいらのこれもり)の指揮する軍勢は未だに義仲の軍勢を上回る。加賀まで後退して建て直しを図った維盛だったが、土地勘の優れた地元武士団により突破口を開かれ、浮き足だった平家軍は一気に瓦解した。

義仲軍に追われ逃げるのが精一杯の平家軍にあって、ただ一騎のみ華麗な鎧兜を身に纏った武者が踏み止まっている。
さぞ名の在る武将と思った義仲軍の武者が、挑んで組み付くとこの武将は弱く、あっさりと首を取られてしまった。首をよく見ると髪は黒いものの顔は皺が深く、相当な老齢である事が判った。その戦死した人物こそ、斉藤別当実盛その人である。

実盛は木曽義仲にとって、幼少の砌(みぎり)に大恩のある人物であった。義仲を逃がし、木曽との縁を結んでくれた人である。当時は源義朝に仕え義朝が滅亡すると諸国を流浪したが、最後には平家に仕えていたのである。この時は平維盛の軍に加わり、戦場での華やかな最後を望んでいたのだろう。齢は七十を越えていた実盛は白髪を染め、ひと際目立つ鎧を身に付けかって命を助けた木曽義仲(源義仲)の軍に立ちはだかったのだった。

実盛が安楽な老後を求めていたならば、義仲の許を訪ねれば良い。だが武士としての矜持がそれを許さなかったのか、元は源氏に仕えながら今は平家に仕えている身の上を恥じたのか。どちらにとろ、実盛は死に場所を求めていたとしか思えない。
老齢の武人が責めても成長した義仲の率いる軍に討たれる事で、最後の死に華を咲かせようとしたのだろうか。

数十年前に自分が逃がした子供が、立派な御大将として数万の軍を率いて決起した。
そういう知らせを耳にしたその時に、実盛は己の死に場所を見出したのだろう。
その心境は複雑なものであったろうし、恩人の実盛を殺した義仲にしても切ない気持ちであったろう。
立派な兜の下には深い皺を刻んだ老人の顔、芭蕉はそれを「きりぎりす」と詠んだ。
切なさの中にも仄かな喜びを抱いていたかも知れない実盛。その心をも見事に表現していると感じさせる。
多太神社に実盛の兜を奉納したのは、木曽義仲だと伝えられている。
敵の兜を奉納したその事実に、義仲の実盛に対する想いが伺える。

その後も各地で連敗を重ねた平家は、壇ノ浦で遂に滅亡してしまう。その平家を滅亡させた源氏の義経、義仲もまた頼朝により滅ぼされる。武士でありながら、貴族たらんと望んだ平家の人々に代わり、頼朝は初めて本格的な武家政権を創り上げる。
当時は田舎であった関東の鎌倉に幕府を開いた頼朝。そこには平家との違いを明確にし、貴族社会と一線を画す頼朝の決意が込められていたのかも知れない。
しかし、その政権内でも源氏の血は続かず北条氏へと実権は移っていくのである。

人類の絶えざる攻防の果ての結末は、どうなるのだろう。僕がそれを目の当たりにする事態は在り得るのか。諸説紛々としているが、真実は闇の中なのではなかろうか。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-03 05:26 | Comments(0)

北陸での源氏の足跡

北陸での源氏の足跡の最たるものは、何と言っても木曽義仲が倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平氏を撃破した合戦であろう。
1180年木曽義仲(きそよしなか)は、平氏追討の令旨を受けて源頼朝が関東で挙兵した事を知り直ぐに挙兵する。挙兵した時点では大した勢力ではなかったが、それまで平氏に押さえ込まれていた地方の中小の武士団が次々と軍勢に加わり、たちまち数万もの大軍に膨れ上がったという。

対する平氏は軍議を開き、まず目障りな木曽義仲を討つべしとの結論を出し、北陸へ侵攻を始めた。
近江から攻めあがった平氏の軍勢10万は、越前(福井県)を突破し、加賀(石川県)まで攻め上るまでにたった20日間だったと伝えられる。それほどに平氏の勢いは強かった。
しかし義仲は情報を集め、的確に手を打っていく。

越中と加賀の国境にある倶利伽羅山に差し掛かった平氏は、軍を二つに分け海沿いを進むルートと山越えのルートに別れ進軍を続ける。義仲は部将に兵を与え、海沿いの敵に当たらせると自らは山越えの敵に臨んだ。敵より早く倶利伽羅山の麓に到着すると、近在の農家から牛を集めた。そして小競り合いを続けながら、夜の帳が下りるのを待って勝負に出た。

数を頼んだ平氏側では、この時は戦勝ムードが漂っていたという。近江を進発して、越前、加賀と連戦連勝だったから無理もない。だがこの倶利伽羅山での戦いの相手はそれまでと異なり、軍略に長けた木曽義仲(源義仲)であった。
その夜に義仲軍は奇襲を掛けた。東と西、北から一斉に攻めかかり、平氏の陣営へ牛の群れを追い立てた。

平氏側の将兵は怯えて逃げ惑うが、三方は敵であり敵の居ない南へと敗走する。ところが
南側は険しい崖であり、漆黒の闇の中で彼らは雪崩を打って谷底へと落下していった。
この時の平氏側将兵の犠牲者は18000を数えたと伝えられ、谷底は死体の山に成った。
これが俗に言う「火牛の計」で、現在では祭りとして富山県小矢部市に伝わっている。

さて源氏の御曹司といえば、頼朝、義経だが義仲もまたそうである。義仲は頼朝や義経とは従兄弟で、父親は頼朝の父義朝(よしとも)の弟にあたる。
義仲の父義堅(よしかた)は頼朝の兄に討たれたが、義仲は忠臣に助けられ木曽(長野県)へ逃れた。そこで木曽戴冠義仲を名乗り、忠臣の娘を娶った。忠臣には男女4人の子供がいたが男子二人は義仲の忠実な部下として、女子二人は妻として義仲に仕えた。
その一人が巴御前である。この巴御前は義仲と常に行動を共にし、合戦にも同行している。

倶利伽羅で平氏の軍勢を撃破した義仲は、遂に都(京都)に達するが、その粗暴な振る舞いが朝廷に嫌われて義経により殺害されている。
それにしても平氏はその栄光の故に現在にまで悪名が伝わっているが、源氏とて甥が叔父を殺したり、従兄弟同士で争ったりと平氏に負けず劣らず血なまぐさい。
元を正せば両方とも天皇家の家系であり、天皇家もまた身内同士の争いに加担していると言える。

尤も頻繁に会う訳でもなく育ちも違う者が、血の繋がりによる親近感を感じていたかと問われれば疑問が残る。父を従兄弟に殺された義仲が頼朝や義経を恨んでいても不思議ではないし、頼朝や義経が義仲を警戒するのも当然だろう。お互いに強大な軍事力を保持しており、天下の政権を手中に出来るか否かの瀬戸際である。血脈など気に留めている場合ではない、というのが彼らの本心だったかも知れない。

転じて現代の日本に眼を向けると、鳩山兄弟のけなし合いなど源平や源氏同士の争いに比べれば児戯にも等しい。子供のじゃれ合いである。
殺し合いこそしないが、遥かな平安末期の人間心理と現代人のそれは何ら変わらない感がする。進歩しないこと夥しいが、一体いつに成れば新しい人間心理が出現するのだろう。
だが、それが決して悪いと言っている訳ではない。本来の魂意識は不変のはずなのであり、これまでとは異なる一面を現し、それが人間心理の中心部として機能する時の到来を心待ちにしているだけなのだ。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-02 05:47 | Comments(0)

守られています

 先日仕事中にちょっとした怪我をした。人差し指を鉄の丸棒で挟み、手袋を抜ぐと血が滴った。直ぐに傷を水で洗い、見ると爪の生え際から第一関節あたりまで裂けているし指の腹も裂けている。φ50mm、長さ5.5mの鉄棒はとても重く、先端を持ち上げた際に手が滑ったのだった。
右手から気を出すイメージをして怪我した指を握り、バンドエイドで強く巻いた。絆創膏は赤く染まったが「ごめんな、でも大丈夫、直ぐに治るから」と指に話しかけ、仕事を続けた。痛みは出ず、3週間を経た現在では完治している。

その数日後にも台の上に20キロ程度の製品を置き、実験用のミニ乾燥機の扉を開けた時に足元でドーンと大きな音がした。製品を鉄板で挟み、ボルトとナットで締め付けた円筒形の重量物が床に転げ落ちた音だった。落ちる様な置き方はしていない筈だが、手前の大きな鉄板(直径25センチ、厚さ20mm)数枚も一緒に落下していた。
見るとコンクリートの床が鋭くえぐれており、その跡は足元から5センチも離れていない。
しかし落下物は何故か僕に触れもせず、床に転がっていた。これが直撃すれば今頃は入院している事だろう。

こんな事があり、現在まで不思議に大怪我の危機から守られて来た過去を思いだした。
重量にして1キロの円盤状の製品三枚が縦に落下して足首の筋を直撃したこと、山積みの製品が崩れて膝まで製品に埋まった時のこと、通勤途中に後ろから激しく追突されながら無傷で済んだ事などが脳裏に浮かんだ。考えてみれば何度も大怪我の危機があり、その何れもが軽傷や無傷で済んでいる。改めて守られている事を実感し、見えない背後霊さんに感謝の言葉が出た。

私たちは一人で生きているのではない。魂のレベルでは一人の人間をサポートする為に多くの霊的存在が関わっているとされている。その霊的存在たちもまた、代表として肉体をまとい人生を生きる人格を守り導きながら共に学び成長していくとされる。
私の守護霊団はさぞかし、やきもきしている事だろう。ドジでうっかり屋で考え無しの私は、放って置くと何をするか知れないから彼らも気が抜けないに違いな。

この日記を書き始めた時、一度ビシッと部屋の隅から音がした。
また、誰かが来たらしい。そんな時は「いらっしゃい」と声を掛ける。ラップ音ではないかも知れないが、一応の返事をしておく。時間や気温に関係なく、一日に一回はこのビシッ!がある。無視していた時は何度も続けて音がしていたが「いらっしゃい」を始めてからは一度になった。
ありがとう、守護霊さん。今日も、ご苦労さま。
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# by levin-ae-111 | 2010-03-01 05:40 | スピリチュアル | Comments(2)
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1996年から三年連続で、縁あって位山へ出掛ける機会があった。なかでも二度目となった97年の登山は格別に思い出深く、不思議な雰囲気につつまれた登山となった。
位山は太平洋側と日本海側の分水嶺として有名であり、その山腹には巨石が散在していることでも知られている。古くは酒井勝軍がピラミッドと断定したとされ、天皇家へ献上される一位の木はこの位山から採取されると聞く。
海抜は1529メートルあり、林道および登山道を経て山頂へ続くコースはハイキングに適している。山頂に設けられた休憩用の高床式の展望台からは、遠く北アルプスや中央アルプスの峰々が眺望できる。私たち一行はお盆過ぎに訪れたのだが、とても良い体験をさせて頂くことになった。

私と二人の友人、MさんとKさんの三人はその日早朝から車に乗り込み位山を目指して国道41号線を高山方面へ向かった。ハンドルを握るのはMさん、私は助手席で後席のKさんと神通川の渓谷の景色を眺めたり、互いの不思議体験を話し合ったりしていた。位山については某霊能力者が本に書かれているのを読み興味を持った。そんな訳で95年にはMさんと二人で訪れていた。
出発から約二時間後、Mさんが突然に車を脇道に乗り入れたので何事かと驚いたが、そこは飛騨一ノ宮『水(み)無神社(なしじんじゃ)』だった。「お参りしていこう」と、Mさん。立派な大鳥居の横に車を止め、下車すると途端にムッとする暑気。八月も下旬だというのにまだまだ暑い。神社や神様について無知な私は「ここは位山を御神体にしているのかなぁ」などと思いながら二人の友人の後に続いた。まず私たちは正面の大鳥居をくぐったところで驚いた。そこには車を降りた時から感じていた暑気がまるでない。境内は杉の巨木に囲まれているが特に日陰というわけでもない。だがまるで冷房の効いた室内にいるような涼しさだ。今にして考えれば、この時から既に不思議な現象は始まっていたのだった。

私たちは一礼して石畳の参道を歩き、境内のお手水(ちょうず)で手と口を清めお賽銭を投げてお参りした。私は神社参拝の礼儀には無知なので、ともかく二拍手二礼して合掌し、「これから位山へ行ってきます。宜しくお願いします」と祈った。そこで思いも掛けず誰かの返事があった。返事といっても無論、耳に聞こえる声 ではない。その声は頭の中に直接流れ込んできた。
「そうか、そうか。行ってこい、行ってこい。道中守護してやるから、安心して行ってこい」中年男性と思しき声で、とても嬉しそうに返答があった。
まさか!神様の返事?驚きながらも嬉しくなった。恐怖心は微塵もなく、無礼を承知でしばらく境内を徘徊し、写真撮影をしてから一礼して再び大鳥居をくぐり外に出た。またもや酷い蒸し暑さを感じ、境内の涼しさはまさに神域ならではと実感させられた。

車に戻り不思議な涼しさについて語り合ううちに林道の入り口に到着した。冬場にはスキー場となるそこは食堂や売店、ロッジが数棟あるが夏場は閉鎖されていて閑散としている。林道は未舗装で整備が悪く、所々に車を傷つけかねない大きな凸凹(おうとつ)が口をあけている。Mさんは狭くギャップの多い林道を慎重に車を進めていく。それでも車は大きく揺れ、登山口までまだ数キロあったが道幅の広い場所に駐車し歩くことにした。私たち三人は急坂の砂利道をテクテクと歩きだした。
当時Mさんと私は三十代後半で、Kさんは五十代だった。標高が上がっても意外に気温が高く、風も弱く湿度が高くて足許も悪い。
果てしない砂(じゃ)利(り)の急坂が続いている。さして重くもない荷物が酷く重く感じる。

セミ時雨(しぐれ)の中をしばらく頑張って歩いた後の最初の休憩で私たちは周囲の異様な気配に気がついた。風も無いのに周囲の山々がざわめき、私たちを追ってくる。それはまるで大勢の人々が一緒にゾロゾと同道している感じで、しかも皆が楽しく談笑しながら歩いている気配が伝わってくる。男も女も老人も子供もいる。元気な子供たちは私たちの周囲を走り回っている気配もする。そのざわめきが私たちのスピードと歩調を合わせて林道の周囲の山に常にある。しかし怖いとか不気味な感じはせず、暖かい視線が私たちに注がれているのを感じとても歓迎されている気がする。集落の人々が総出で出迎えてくれている、そんな感激の気分に浸りながらも暑さで体力は次第に消耗し日ごろの運動不足が悔やまれた。

「まだ、遠いのかなぁ」Kさんが汗を拭いながら呟く。予想以上に辛い道のりに挫けそうになったとき、また不思議な現象が起こった。疲れた私たちを励ますように何処(どこ)からか良い香が漂ってきた。上質の御香を焚いたような甘く上品な香は私たちに力を与えてくれた。「神社の匂(にお)いだ、もう登山口は近いのね」とKさん。「そうだね、もうすぐだ」と、Mさんと私。
でも考えてみれば登山口の神社は香がするような建物ではないし、木造の建物があったとしてもこんな所まで木の香が届くはずもない。当然、登山口まではまだ遠く更に一時間近くも歩いた。その間に二度もあの『神社の匂い』で神様に励まされた。私たちを励まし導く『神社の匂い』と、暖かい視線を感じる大勢の人の気配に後押しされて何とか林道の終点、つまり位山の登山口にようやくたどり着くことができた。しかしこれからが勝負だ、より険しい登山道が待っている。
 
登山口には金属製の鳥居と不気味な人面をした龍の像が向かいあう形で一(いっ)対(つい)、球形の祠(ほこら)と記念碑が建立されている。この山には不釣合いに感じられるそれらを横目に見ながら、私たちは細く急勾配の続く登山道へ踏み入った。一緒に来てくれた大勢の人たちの気配は位山に入ることなく、周囲の山にあって私たちを見守っている。
山頂までの道中には様々な形の巨石が急斜面の山肌にへばり付くように点在していて、それらの一つ一つには注連縄(しめなわ)と名前を記した看板が着けられている。しかしどれも朽ち果てていて、岩の名前も読めない状態になったものが殆どだった。山頂近くには『天の岩戸』と命名されている巨石構造物が存在していて、やはり注連縄が張ってあり、榊のお供えと賽銭箱が設置されていた。そこからの道は平坦で気温も低くなり、快適な登山となった。そしてついに山頂へ到着。山頂には標準点と木造高床式の展望台が設けてあり、私たちは景色を眺めたり、写真撮影をしたり涼風に涼んだりと大いに楽しんだ。
 
登山道とは反対側へ下った場所に水汲み場がある。しばらく頂上の眺望を楽しんだ後で、私たちはそこを目指した。心配されたKさんの体調も万全で美味しい山の清水を味わった。それから下山し、登山口の傍らにある休憩所で食事を摂った。周囲の山は相変らずザワザワしていたが、今は風もあり気温も下がっていて心地よい涼風が吹き抜けている。
Kさんは「私たちが三人とも子供で、そこらを走り回って遊んでいるイメージが見えたわ。前世はきっとここに居たのね」と言っていた。私はそこまでは感じなかったが、何だか久々に里帰りをしたような懐かしい感覚を強く覚えていた。
 
  時間も押し迫り、いよいよ下山を始めた。後ろ髪を引かれるような感情がわきあがり、「帰りたくない」というのが私たちの本音だった。私たちの足取りに合わせ、人々の気配も山を降りてくる。空には四神『青龍』『白虎』『朱雀』『玄武』に似た形の雲が現れては消えていった。林道を下るにつれて周囲の人々の気配は次第に薄れていく。人々があるところで立ち止まり皆が手を振って見送ってくれている。子供たちはまだ一緒に降りてくるが、その気配もついには消えた。何と不思議で嬉しい体験だったことか、水無神社の神様が約束されたとおりに私たちの道中を守護してくださったのだろう。私たちは去りがたい感情を胸に位山を後にしたのだった。

この話にはまだおまけがある。帰ってダイニングで一服していた私を見た母親と妹が私の「肩に何か憑いている」と言い出した。私は自分の生命エネルギーが拡大したのだろうと思った。というのも、日ごろから運動不足の私が突然十数キロ歩いても筋肉痛に成らなかった。私だけでなく、MさんKさんも全く筋肉痛とは無縁だった。Kさんにいたっては日ごろから話をするときにも息苦しそうにする人だ。それが元気に山を登り、筋肉痛にも成らない。本当に神様のご配慮をいただいたに違いないと実感した。

そして撮影した写真にも異変があった。参道から移した拝殿の写真は屋根の上あたりまで赤くなっていた。また山頂からの写真も白昼にも拘らず全体に夕焼けを写したように赤みがかっていた。これらの現象は不思議ではあるが、不気味ではない。しかし水無神社での嬉しそうな神様のお返事をはじめ道中に感じた好意的な数々の現象は解せない。
 どうして氏子でもなく、日ごろから参拝もしない私たちに神様がご好意を寄せてくださったのか。私たち三人が特別に神様に好かれる要素を持っていたとは考えられない。少し強引かも知れないが、ここに一つの手掛かりがある。
 
それは『飛騨(ひだ)福来(ふくらい)心理(しんり)学(がく)研究所(けんきゅうしょ)』を主催しておられた山本(やまもと)建造(けんぞう)先生(故人)の説である。
それによると日本列島で最初に隆起した土地は乗(のり)鞍(くら)岳(だけ)周辺であったとされ、人類も発生し文明を築くまでに発達した。人々は上方(うわかた)様(さま)と呼ばれた長(おさ)を中心に平和な生活を営んでいた。水に映る太陽を信仰の対象としており、水に映る太陽を皆で囲んで瞑想していた。その儀式を『日抱(ひだ)き』と呼んだ。それが飛騨の地名の由来であると謂(い)われているとされた。気候の寒冷化とともに人々は乗鞍岳周辺から現在の飛騨(ひだ)久々野(くぐの)周辺へ移住して(水無神社の所在地付近)都とした。平穏に生活していたが、やがて大陸からの野蛮人の侵入に備えて各地へ人々を配して防備に当たらせた。国民の中心が上方様であり後の天皇家にあたる家系である。つまり上方様は日本国民の親のような存在である。その御霊(みたま)が数千年を経た現在でも水無神社に鎮座ましますとしたらどうだろうか。遠方からの国民の訪問を喜ばれ、偶然にも私が御霊の思念を受信できたのだと考えられないか。故に御霊のご配慮を感じられ先に記したような素晴らしい位山登山となったのだと思う。
古(いにしえ)の都に未だに鎮座される親神様は今も全国民を見守ってくださっている。ありがたい親のご好意を戴いた心温まる登山であった。
以上
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# by levin-ae-111 | 2010-02-28 18:46 | スピリチュアル | Comments(4)

今度はパラリンピック


バンクーバー五輪も終盤を迎え、各競技の最終結果が続々と伝えられている。
悲喜こもごもだが、健常者の五輪から障害を持つ人々の祭典へと競技は引き継がれる。
不幸にして障害を抱えた人々が、その障害にも関わらず素晴らしいアスリートの顔を見せてくれる。その表情にはハンデを抱えている陰りは微塵も無い。

競技会場は健常者の使用したものと同じで、種目によっては危険度も迫力も健常者のそれと変わらない、いやそれ以上に凄い迫力だ。
チェアスキーなどは、そのバランス感覚は通常のスキー以上に難しい様に見えるし、姿勢が低い分、スピード感もより大きいに違いない。

実はパラリンピックでは、日本勢はけっこう強い。夏冬どちらの大会でも、沢山のメダルを獲得している。それにも関わらず、テレビの中継も僅かでメダリストが注目を集める度合いも通常の五輪よりも少ない。
国が選手に行う援助も薄いもので、多くの選手は金銭的な気苦労を強いられると聴く。

何故にこうも異なった対応なのか?彼ら彼女らも立派な国の代表である。
しかも強いとなれば、応援や支援に力が入ってしかるべきだと思うのだが、どうしてそう成らないのだろう。国を挙げて応援し、日本人のメダリストが生まれる度にマスコミがお祭り騒ぎをしても良いではないか。
連日、耳にタコが出来るほど同じニュースを流し続けても良いではないか。

そうならない理由の一つには、根底に障害者スポーツに対する軽視が存在しているからではないだろうか。記録が出てもメダルを獲得しても、世間では大きく報道する価値が低いと思っているようだ。
私はそれをとても変に思う。ハンデを抱えていても一般人には出来ない妙技を披露してくれる選手たちは、各々が立派な一流のアスリートである事に何ら変わりはない。
アスリートをアスリートとして扱う事に何の違いがあるのか、健常者のアスリートと同様にハードな練習を経て世界レベルに登りつめた人々の努力や勇気に隔たりは無い。
ハンデを克服して頑張るアスリートたちに、心からの拍手を送りたい。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-28 08:16 | Comments(0)

飛燕の舞

 精神世界に興味を抱くずっと以前に、読んだ戦記物の本の中に飛燕を駆って戦ったパイロットの著書があった。もう探しても無いが、その本は僕の宝物のひとつだった。
田形竹男元陸軍准尉の著書だったが、タイトルは忘れてしまった。

陸軍三式戦闘機「飛燕」
日本機にしては珍しい液冷エンジンを搭載し、速度、上昇力にも優れた戦闘機とのイメージがある。美しいフォルムは零戦とは趣を異にし、力強さをも感じさせる。
エンジンはダイムラーベンツのライセンス製品だったが、トラブルが多く後には空冷エンジンに換装して五式戦闘機の母体となった。

肝心の本の内容だが、飛行時間1000時間を越えるベテランの田形准尉と僚機の台湾上空でのグラマンとのドックファイトの記録である。
現在と違い一度の飛行時間が長くても6時間程度の当時、1000時間を飛ぶのは容易なことではない。田形准尉は名実ともにベテラン搭乗員の域に達した達人だった。

僚機を率いての飛行中に台湾上空で遭遇したのは、二十数機のF6Fだった。それから地獄のドッグファイトを30分以上も続け、数機を撃墜して不時着し生き延びた。
気に成っていた僚機も同様に逃げ延びて不時着し、二人とも生還したという体験手記だった。
周囲の敵を把握し、常に冷静な判断と抜群の技量を駆使し、群がる敵を振り切って生還するのは尋常な技ではない。
喉は渇き、唾液も枯れ、手足は痺れ度重なる強烈なGフォースで意識も朦朧となる。
常に敵の攻勢に晒される体力の限りを尽くしての戦闘で、二人の日本人パイロットは見事にその実力を発揮したし、二人の愛機「飛燕」もそれに応え性能をフルに発揮した。
一機撃墜する度に敵はエキサイトし、益々追撃に躍起になる。

僚機とのコンビネーションが取れたのは最初のうちだけで、ドッグファイトの大半は各々が単機で敵をかわし僅かな隙に反撃するといった繰り返しだった。イメージ的には何だか日本の時代劇に似ていると感じ、一人で大勢の敵を切り倒す殺陣のシーンを思い出したものだ。
僕も以前から寝入り端に、闇の中で全身に衝撃を感じ振り回される感覚に苦しんだのだが、これがどうもGフォースの感覚らしいと気づくまで暫くかかった。それだけに現実の空中戦でのGフォースはどれほど辛いか、予想もつかない。

生還し部下も無事と判り安堵した田形准尉だが、畑に墜落した敵機のパイロットの亡骸を荼毘に臥し生命の儚さをしみじみと感じた。戦争だから仕方がないが、さっきまで生きていたアメリカ青年の亡骸は、田形准尉に少なからず衝撃を与えた。
空で命のやり取りをしていても、亡骸を見るまでは実感が無かったのだろう。

現在の戦争は相手の亡骸さえ見えない。湾岸戦争以来流される戦闘の模様は、ピンポイントで目標を破壊する爆弾やミサイルの映像ばかりだ。それらは無機的で、まるでTVゲームの様であり現実感に乏しい。
こんな戦争の見せ方も人々の感覚を麻痺させる意図があり、一方的に仕掛けたアメリカの正当性をアピールするプロパガンダに違いない。
画面の中で炸裂する爆発の下には、抵抗できない人々の死がある事を忘れてはならない。
私達は想像力を逞しくし、この例に見られる様な政治ショーに隠された事実を見極める努力をする必要があるだろう。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-27 05:42 | Comments(0)
第二次大戦の最中、ドイツ第三帝国からの迫害を逃れる為にユダヤ人がリトアニア日本領事館へビザの発給を求めて殺到した。領事代理であった外交官、杉原地畝 (すぎはらちうね)氏は本国からの訓告を無視して手書きのビザを時間の許す限り発行し続けた。
帰国後は外務省を解雇され、裏切り者と白眼視されて不遇な晩年を過ごした。

杉原さんが発行されたビザで逃げ延びる事ができたユダヤの人々の内では、今も彼への感謝が絶えない。数年前に放映されたドキュメントでは、今や曽祖父母となった人々が杉原氏のお陰で、こんなに家族が増えたと喜び感謝する姿が在った。

さて新聞では、杉原氏のビザを手にシベリア経由で脱出した人々に関連する新事実が発見されたという記事があった。
それは元JTB職員の大迫辰雄さんの遺品から、ユダヤ人女性6名、男性1名の顔写真が発見されたというもの。大迫さんは戦中、ウラジオストックと福井県敦賀市と結ぶ輸送船「天草丸」に乗り組んで二十数回も往復したという。

写真の裏には、ユダヤ人から大迫さんへ宛てた感謝のメッセージが記されていた。
「素敵な日本人へ」「私を覚えていて」などの言葉が、ポーランド語やブルガリア語などで記されているという。関係者によれば、大迫さんは真面目な人柄で親身になって面倒をみたのだろうとの事。
関係先では写真の人々を探し出したいとし、杉原氏と同様に陰で力を尽くした大迫さんの偉業を紹介したいとしている。

それにしても杉原さんだけでなく、日本人がここでも素晴らしい人間愛を発揮していた事実が誇らしく嬉しい。当時の日本はドイツと同盟関係にあり、ユダヤ人に対しても好意的な筈はなかった。杉原氏が外務省を解雇されたのも、同盟国たるドイツに協力する外務省の指示に反した行いをしたからだった。
大迫氏も杉原氏ほどではなくとも、ユダヤ人に親切にするには勇気が要ったに違いない。そう感じるのは、現代の我々が察知できない独特の雰囲気が存在しただろうと想うからだ。

何もかもが殺伐としていた当時、国命に反して「命のビザ」を発行し続けた男、それを受け継いで黙々と脱出を援助した男が居た。見事な命のリレーが日本人により成された事実は、未来永劫まで輝きを失うことは無い。そして二人の男たちは戦後も自らこの偉業を口にすること無く逝ってしまった。これが本来の日本人の精神的な高潔さなのであろうか。
無論、大迫氏以外にも多くの日本人が彼らの脱出行を援助したに違いない。
脱出を援助した総ての人々の魂には、永久に消えない金メダルが輝いていることだろう。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-26 05:43 | Comments(0)

オリンピックに想う

 冬のオリンピック・バンクーバー大会が華やかに開会し、世界中が競技の勝敗に注目している。テレビでも各国のメダルが何個とか、国旗の後ろに表示したボードを映す。
日本期待のフィギアスケートの女子SP(ショートプログラム)が今日から始まり、日本の三人は上位につけている。結果はどうあろうとも、オリンピックに参加した総ての選手たちに拍手を送りたい。

昨日(2/23)に荒川静香さんとイリーナ・スルツカヤさんのドキュメントが放映されていました。初めてのオリンピックの時、荒川さんに送られた様々な勝手なアドバイスで方向性が見えなく成った。まだ若かった彼女に周囲の関係者が勝手な助言を各々に繰り返した。
中には正反対の助言もあった。そんな中で荒川さんはオリンピックに出場し、13位と敗退した。それ以来、荒川さんはオリンピックを目指さなくなった。

荒川さんが本当に目指したのは、アイスショーの世界だった。楽しく滑る、そこには勝敗は無くお客さんとの一体感がある。だが競技で上位の選手しかアイスショーには呼んで貰えない。そこで実績作りの為に競技を続けた。他にもコーチを変えたり、採点ルールの変更に翻弄されながらも競技を続けた。
その結果がトリノ五輪での日本で唯一のメダル、しかも金メダルへと繋がった。現在は念願のアイスショーでお客さんを楽しませ、自らも楽しみながら滑っている。

一方のスルツカヤさん、彼女の悲願は五輪の金メダリストに成ること。ソルトレイクではそのチャンスが在ったが、疑惑の採点で金メダルを逃した。最高の演技をしたにも関わらず、優勝は地元アメリカの選手だった。
その出来事以来、スルツカヤさんは状況により採点が左右されると思い始めた。
そんな事もあり今度こそ、と臨んだトリノだった。
しかしその時は他種目の金メダルは総てロシア勢で占められており、スルツカヤさんの脳裏には「これ以上はロシアに金メダルをやりたくない」とジャッジは考えるだろうとの想いが過ぎったという。

そして・・・彼女の前で素晴らしい演技をした荒川静香選手は、パーソナルベストをたたき出しトップに居た。スルツカヤさんは最終滑走だった。
彼女らしからぬミスをして2位から3位に落ち、悲願の金メダルもまた彼女の手をすり抜けて行ってしまった。
演技以外の要素がスルツカヤさんを苦しめ、荒川さんをして五輪には出たくないと思わせてしまった。そこには選手の情熱を萎えさせてしまう様な、何かがある。
勝敗に拘る周囲の人々や加熱する報道が、無用のプレッシャーとなり選手に襲い掛かっているだろう事は想像に難くない。
いうまでもなく、最も努力精進をしているのは選手自身だ。その選手の努力とは別の処で蠢く不気味な何か。それはナショニリズムか、商業主義の果てしない欲望か。

アイスダンスやフイギアなどは勝負よりも、その華麗な舞いを楽しむべきだと思う。タイムなど厳格な差が認められない競技は、どうしても採点に公平を欠く傾向があるのではないか。僕としては採点する人間が周囲の雰囲気に流される事は絶対にないのか、選手の好き嫌いやナショナリズムによる影響を完全に排除できるのか、などの疑問が尽きない。
五輪が勝負に左右されず、真に努力した選手達の技を世界の人々に披露する場になればよいと想うのは僕だけだろうか。

勝敗の無い五輪は詰まらない、そう思われるだろうが誰かが負けて泣く場面を見なくて済む。勝負のプレッシャーで実力を出し切れずに終わり、落胆する選手を見なくて済む。
勝負を度外視すれば、より実力も出易いというものだ。選手の満足した満面の笑みが見たいと思いませんか。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-25 05:39 | Comments(0)
 江戸時代のこと、加賀藩の江戸屋敷へと雪を運ぶ飛脚たちが存在した。加賀藩では真夏まで氷室で保管されていた雪を将軍に献上する慣わしが在ったらしい。
その雪を遠く加賀から江戸へと運ぶのが「加賀飛脚」たちの使命だった。
これは相当に辛い仕事で、四人が一組でチームを結成し事に当たる。途中の宿場で次のチームに荷物を渡し、駅伝のタスキよろしく江戸まで走り抜けたのだ。

これはドラマであるから、途中に様々なアクシデントが起こった。例によってレポートは要潤さん。これまた例によってリアルな設定で、飛脚たちのふんどし姿や汚れた尻、ほとばしる汗で黒光りする顔、乱れた髪など真に迫っている。ただ林道を使用したと思われる山中の街道筋の風景は一部、いただけなかった。

さて、ドラマはベテランの親方とこれがデビューの若者を中心に描かれていた。この仕事を成し遂げて一人前の飛脚を目指す若者。それを暖かく支援する親方だが、新参者の加入に不満を漏らす中堅の先輩連中は渋い表情だ。
荷物は前述のとおり「氷室の氷(雪)」だが、最初は約10Kg程度を丁寧に箱詰めし何重にも覆って出発する。

行き倒れの死体があったり山賊に氷を奪われ、隠れ家を突き止めてこれを急襲して取り戻したりと、ドラマチックな展開だった。
そして次のチームが待つ飛脚宿へ辿り着くのだが、ここでも大問題が出来する。次のチームのメンバーが酔いつぶれている者や、何処かへ出たまま帰って来ない者がいて全員が揃っていない。

親方同士で悶着の末、最初のチームの志願者と後のチームのメンバーとの混成で輸送を続けることに決した。これが飛脚デビューの若者は「江戸に行ってみたい」と志願し、二人の親方と若者、後のチームのメンバーが一人加わり出発した。
江戸までもう少しの所で、若者が足を捻挫した。親方は迷わず運んでいた氷を取り出し、手ぬぐいに巻き患部に当ててやる。この時点で氷は1Kgにも満たない量に激減している。そこでリーダーは更なる意外な行動に出る。治療に使った分の残りも取り出し、道端の泥で汚しを入れたのだ。

「えっ、どうしてですか」と、要潤リポーター。
「綺麗なままだと、来年の連中が困るだろう。これも俺達の知恵なんだよ」と親方。
庶民の知恵は逞しいものである。氷室の雪など見たことも無い江戸詰めの武士や、幕腑の役人連中は「そんなものだ」と思っているから、問題は無いのだろう。
所詮は将軍が一瞥もくれないかも知れない無意味な儀礼の一つなのだが、加賀藩にとってはそれなりに重要な儀式であったのだろう。
いつの世も政治的な配慮の為に庶民が苦労させられる。政治や行政に携わる人々には、是非とも賢明であって欲しいものだ。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-24 05:24 | Comments(0)

内なる神との対話

今夜は浴槽にドップリと首まで浸かり、様々な事を考えていた。とても重要な懸案があり、それについて考えを巡らせていた時「あっ、聞いてみれば良いじゃん」と思った。
それで「○×の件について、どうでしょうか」と、何時もご贔屓にして貰っている神様に質問した。

Q:例の件ですけど、どうでしょうか?

A:大丈夫ですよ、私が行くからね。任せておきなさい。

質問に対する答はこれだけだったが、以前に上手く行かなかった理由を尋ねた時に意外な内容へと発展して少し驚いた。それでまた人間とは意識とは何と不思議なものかと、今更ながらに実感させられた。

Q:この前はどうして上手く行かなかったのでしょうか?

A:前回は貴方の集中が今ひとつだった。
(確かにそうでした。)
貴方の集中が私達に力を与える。貴方の内に私達が在り、私達の内に貴方が居る。
貴方の外の世界に私達は祭られているが、私達の世界では貴方が祭られている。
その真意は貴方の内なる世界に私達が居り、私達の内なる世界に貴方が居るからだ。
私達は互いに己の内に相手を見出すのであり、我々の関係はそれ以上でもそれ以下
でもないのだ。

これはどういう事だろうか?この時、僕は手力男の命様に話し掛けていた。それがこの内容にまで発展し、混乱してしまいそうだ。
宇宙創造の意識は無論、総てを内包しているし、この意識を離れては何者も存在が不可能な事は分かっている。その意味では至極当然なのだが、それにしても飛躍しすぎの感がする。内なる神との会話なのだろうか?
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# by levin-ae-111 | 2010-02-23 05:38 | Comments(0)

走れ駆逐艦

 連合艦隊の艦種で最も活躍したのは「駆逐艦」だと思う。1000トン未満のものから最大でも3500トン前後の小兵ながら、船団や艦隊護衛に大戦末期には物資輸送や兵員の撤退など太平洋戦争全般に渡って活躍している。海軍の作戦全般に投入された駆逐艦は、開戦前には175隻を数えたが、最終的には36隻にまで激減し、その消失率は78%と凄まじい。消失率だけなら他にもっと高い艦種も存在するが、絶対数が圧倒的に多い駆逐艦の被害の比ではない。
駆逐艦の兵装は主砲、機関銃、魚雷、爆雷だったが何といっても、そのスピードが最も重宝された理由のひとつだろう。高速で小回りが利き、最高で30ノット以上もの速度が出せた。潜水艦の水中速度6~9ノット程度と比較すると、駆逐艦がいかに高速だったかが判る。

この駆逐艦だが実は海軍では「軍艦」とは呼ばれず、単に艦艇として区分されていた。つまり掃海艇や水雷艇などの小型艦艇と同様の扱いだった。従って艦首には菊の御紋を戴かず、艦長も「駆逐艦長」と呼ばれ、軍艦の艦長とは区別されていた。
この様な扱いを受けていた駆逐艦だが、太平洋戦争全般に渡って最も多くの闘いに参加し補助艦艇としての役割に徹した。戦艦大和に最後まで付き従ったのも駆逐艦で、漂流する兵士を生き残った駆逐艦が決死の救助を行った。

その中でも最高の武運艦として有名な「雪風」(宇宙戦艦ヤマトで古代進の兄が指揮していたのと同名)は、戦後も大切にされ台湾海軍の艦艇として活躍した。引渡しの際に、元の乗員たちが隅々までピカピカにして引き渡した。台湾側も雪風の艦暦を知っており、敬意を持って受け取り大切に使用した。退役後に返還をしようとした矢先、嵐で沈没し舵輪だけが日本に返還された。あの秀麗な艦が失われたことは非常に残念だ。

駆逐艦はその高速と引き換えに、防御機能を捨てていた。スピードを得るために幅を狭くし全長を長くしたスタイルは、航行の安全性に悪影響を及ぼす場合もあった。しかも装甲は施されておらず、僅か10mm程度の鋼板で船体が造られていた。
これは小型爆弾の命中でも致命傷となる程度の貧弱なもので、魚雷などが命中すれば一瞬で沈没してしまう脆弱な造りの船体だった。また高速ゆえに船体内部空間の半分近くをエンジンルームが占めており、騒音や振動、揺れが激しく居住性も悪かった。

僕が太平洋戦争に参加した艦艇の内で駆逐艦を最も好きな理由は、スタイルのスマートさや勇猛さ以上に乗員たちの心意気や一体感にある。
駆逐艦や潜水艦などの小型艦艇では、戦艦や空母には見られない独特の人間関係が在ったようなのだ。
海軍は陸軍と比べ階級の上下による人間関係の隔たりが比較的小さかったらしいが、それでも大型艦では階級による差別が厳然と存在し、風紀についても厳しかった。
士官室(ガンルーム)には、世話をする当番兵以外の下士官兵の出入りは禁じられていたし、敬礼がだらしない等と言って因縁をつけての暴力も存在した。

その点、駆逐艦では員数が少ないことや船が狭いこともあり、より人間臭い関係が存在したらしい。闘いとなれば全員が結束し、手持ち無沙汰な者など誰もいなかった。
一発でも被弾すれば沈没する確率の高い駆逐艦では、全員が運命共同体でありその事が駆逐艦独特の雰囲気をかもし出していたらしい。

前述のように簡単に沈んでしまう駆逐艦の乗員たちは、意外な事に決戦前夜となっても特別に緊張した風も無く淡々としていたという。一方で戦艦などでは緊張でピリピリした空気が張り詰め、覚悟を決める為に酒盛りなどが行われたらしい。
駆逐艦乗りには大型艦の乗員には無い独特の誇りがあり、それが彼らをして決戦を目前にしても動じない強さに繋がっていた。
駆逐艦乗りにとっては遠洋航海そのものが命懸けであり、常に肝を据えている必要があったのだ。

荒天下の太平洋を疾走する駆逐艦、大きな波浪が一瞬で艦(ふね)を呑み込む。沈んだかと見まごう光景から数瞬の後、日本刀の切っ先のごとく鋭い艦首を躍り上がらせ、波頭を蹴立て波間から飛び出してくる駆逐艦の勇壮な姿が眼に浮かぶ。
喫水線から甲板までが10メートルに満たない駆逐艦は、ブリッジまでも波を被る。日頃からこんな風だから、駆逐艦乗りは常に命懸けだった。自然と必要以上に階級の差に拘らない雰囲気や無用な風紀は捨て去られ、全員の結束が強まり人間関係が濃くなるのである。

誰もが自分の成すべき仕事を心得ており、戦闘ともなれば無心で自分の務めと向き合ったのだろう。しかし駆逐艦にとって戦果を挙げる機会はそう多くなかった。
駆逐艦最強の武器は魚雷だったが、これと主砲だけが戦艦や巡洋艦などの大型艦に立ち向かう武器だった。しかし小口径の主砲は非力であり、大型艦を沈める唯一の手段が雷撃だった。だがこれを使うチャンスは滅多に巡って来なかった。

大戦末期、ガダルカナル島への補給を担ったのは駆逐艦や潜水艦であった。この補給作戦で多くの駆逐艦が失われているが、駆逐艦が本領を発揮した数少ない闘いが展開された海域でもあった。
「ルンガ沖夜戦」がそれで、田中少将の指揮で米国巡洋艦と駆逐艦の多くを葬った。
輸送任務中の駆逐艦隊を襲った米艦隊の重巡洋艦(1万トンクラス)数隻と駆逐艦に対し、魚雷戦を仕掛けた日本駆逐艦隊が勝利した闘いだった。
米側は田中少将を最高の駆逐艦指揮官と高く評価したが、日本側はこれと反対に田中少将を司令官から解任した。その理由は伝統の指揮官垂範を放棄し、自艦を隊列の先頭ではなく中央に位置せしめた事にあるようだ。

戦後田中元少将は、この件に関して余り語らず「僕はただ、突撃せよと言っただけだよ。後はみな部下がやってくれた」と述べている。こんな処にも階級の上下を超えた駆逐乗り同士の信頼や友情が見え隠れしている様に感じる。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-22 06:04 | Comments(0)
 今日は何だか判らないがやたらと怒りがこみ上げて来て、総てに投げやりな感情になっている自分に気が付いた。そこで気分転換にと散髪に出かけ、少しスッキリするかと思ったが正体不明の憤怒の勢いは治まらない。
これは何かに取り憑かれたかと感じたが、どうも違う様な気もする。

そこで何故だか、日々一編ずつ楽しみながら読む積りでいた佐藤さんのエッセーを開いた。
相変らず楽しく面白い、もう少し、後チョットと読み始めたら止まらず、とうとう最後まで読み切ってしまった。
それで今更ながらに気づいたのだが、どうも佐藤さんと自分の感性は似ている。
彼女のエッセーの面白さは、当たり前の事を当たり前に主張している点にある。
自分自身を変わり者と称しながらも、至極真っ当な論調なのだ。それを上手に面白可笑しく書く辺り、流石はプロだと感じさせる。

例えば息子が事件を起して会見を開いた大物女優さんへのマスコミの態度に憤慨する佐藤さん(否、今後は親愛の情を込めて「愛子さん」と呼ぶ)は叫ぶ。
息子は一人前の大人なのであり事件の責任は親である女優さんには一切ない、それを知りたがるマスコミや世間の連中に逆に問いたい「今、どんな心境ですか」と。喜びの頂点にいる人、悲嘆のどん底に居る人に向かって「今、どんな心境ですか?」は、確かに馬鹿げた質問の最たるものだろう。嬉しい、悲しいに決まっている。
確かに愛子さんが仰る様に、テレビのインタビューでは必ずこの馬鹿げた、厚顔無恥な質問が飛ぶのだ。

それから二十年にも渡った怪異現象との闘いで、愛子さんが学んだ霊的真理をエッセーとして出しておられるが、それに対する誤解も甚だしいようだ。
ご他聞に漏れず、マスコミは怪異現象にのみスポットを当てて真実に大切な事柄には見向きもしない。何故に彼女が自家の怪異現象をエッセーとして公開するか、その心、想いが全く理解されていない。
そして誤解の上に迷惑な電話や手紙が多いらしい。夜中に突然、見ず知らずの人から電話があり、これまた唐突に「死にたい」とか「亭主が浮気して・・・」とか、「弟夫婦が一銭も払わずに居候している・・・」とか言ってくるらしい。そんな相手は大抵、名乗りもせず一方的に喋り、相談している積りに成っているのだ。

それで愛子さん「どうして、私にそんな事を??」と成ったらしいが、漸くエッセーの内容が誤解されているらしいと気づいた。彼女は自分が霊能者だと勘違いされているらしい事に
思い当たり、戸惑っていた。しかし、相手の気持ちを慮り「死にたい」人には地獄の話
で脅かして萎えた気持ちを吹き飛ばし、時には一緒に亭主の悪口を言い立て、はたまた「自分で出て行って、と言いなさい」と尻込みする相談者の背中を押す。
彼女の家族や友人は人好を揶揄するが、その辺りが愛子さんの愛子さんたる所以だろうと想う。この「想う」と「思う」の使い分けにも一説あげられているが、それに関しても全く同感である。

これとは無関係な話しだが国会に於ける論議で「政治と金」の問題が白熱している今日、彼ら国会議員はそれで自分の務めを果たしていると思っているのだろうか。
もしも、万一にも、本当にそれで「自分は国会議員の職務を果たしている」と思っている人は、直ぐに辞職しなさい。何故かと問うなら、見当違いも甚だしいからだ。
今はそんなスキャンダルよりも、緊急に成さねば成らない課題が山積している。
スキャンダルを追求したければ、その課題をクリアした後に気が済むまでやれば良い。
とまあ、こんなのが国民の本音ではないかと想像するのだが、こんな事を考えてしまう辺りも何となく愛子さんとの感性の類似を感じてしまうのである。
そして気づくと、訳のわからない憤怒も和らぎ今は心中も平和になりつつある。
愛子さん、ありがとう御座いました。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-21 08:16 | Comments(0)

大先輩との再会

 リーマンショック以来の不況の追い風に乗り、会社は次々と情け容赦なく同僚たちの首を切り落としていった。その付けが最近になって回って来た。
幾分の先行きが見えだしたのか、最近は注文が回復傾向を示してきた。それで、さあ大変。
たちまち人手不足となり、会社は急遽地元のシルバー人材センターへ人材派遣を依頼した。
その派遣で遣って来たのが、元社員の大先輩たちだった。

二人の先輩が派遣されて来られたのだが、二人とも十年以上も前に僕がお世話になった方々だった。お二人とも気さくで話し易く、当時新入社員だった僕の質問に気軽に親切に答えてくださった。
突然の再開だったが、あの頃の思い出がよみがえり感無量だった。

当時は仕事に関する研修も無いに等しく、突然に他部署での手伝いを命じられた。しかも大切な最終仕上げ&製品検査と梱包だった。教育はたったの30分程度で、教育係りの先輩は忙しいからと僕を放置して何処かへ消えた。
「えっ、いきなり一人で!!」目前の作業台には山積みの製品が・・・。

仕方が無いので教えられた通りに仕事を開始したが、実際に作業してみると疑問が次々と浮かび判らないことばかりだった。そこで僕は手当たり次第に付近の先輩に尋ね回ることにした。
「あの、○×が△なのですが、どうすれば良いでしょうか?」と、何人にも訊いた。

大抵の先輩連は迷惑そうな表情を隠さなかったが、このお二人を含めた何名かの先輩は自分の仕事を中断してまでアドバイスや見本を実施して教えてくださった。
とりわけお世話になったのは、以前に僕の命ぜられた仕事をしておられた方だった。
風貌はXメンの教授やスタートレックのジャン・リュック・ピカード艦長役でおなじみの俳優さんに似ている。いや、その俳優さんよりもハンサムだと、僕は思った。
その後も疑問や問題が出るたびに、その先輩にお世話になった。

その先輩と今度は一緒に仕事をする。当時教えては貰ったが、基本的に部署が異なっていたので一緒に仕事をすることが無かったのだ。
当時との違いは僕が先輩の身体を気遣う様になったことくらいだが、もう質問することも無く大先輩のブランクを埋める手伝いが出来ることが嬉しい。
大先輩たちはシルバー人材なので、会社の都合によっては直ぐに居なくなってしまう。
今はこの状態が少しでも長く続くように願っている。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-20 07:32 | Comments(0)

桃太郎伝説

 全国に桃太郎伝説の発祥の地と名乗る地域がいくつか存在するが、その本命は何といっても岡山県だろう。しかし、そこに鬼ケ島は無いし、大きな桃が川を流れて来たとする伝説も存在していない。お爺さんもお婆さんも、桃太郎も鬼も登場しない。
その代わり鬼ノ城があり、吉備津彦の命や温羅(うら)という名の人物が登場する。
伝説の物語はこうだ。

2000年程前に朝鮮半島から温羅という人物が渡来した。身長4メートルの巨漢で凶暴な性格、加えて妖術も使う。鬼ノ城を築き、尾根伝いの岩屋を住まいとした温羅は旅人や船を襲い、朝廷への謙譲物までも略奪し暴虐の限りを尽くして暴れまわった。
人々の請願により朝廷から軍勢が送られたが、これが全く温羅には歯が立たず敗北した。
そこで武勇に優れた吉備津彦の命が派遣され、人々は黍(きび)で作った団子を献上して迎えたところ命は大いに喜んだ。

吉備津彦の命は鬼ノ城がよく見える場所に陣を構え (楯築神社)、温羅へ矢を射掛けた。
温羅は石を投げて応戦し、矢と石は空中で衝突し決着が付かない。一計を案じた吉備津彦は2本の矢を同時に放った。すると一本は石と空中で衝突し、一本は温羅の目に刺さった。
温羅は雉に化けて逃げるが、吉備津彦は鷹になりこれを追う。
自分の血で赤く染まった川に魚になり逃げ込んだ温羅だが、吉備津彦は鵜になってこれを捕らえた。そして首を刎ね、晒した。何日もこの首が唸るので、今度は土に埋めたがそれでも唸り続けたという。それが現在の釜鳴り神事の元となったといわれている。

こうしてみると、一般に知られている物語とは随分と異なることが判る。現在に繋がる遺跡や由来の伝わる神社が存在することから、伝説に近い何らかの事実が存在したのだろう。
単なる盗賊退治の物語が長く伝わっているとも考えづらいので、朝廷に反抗する勢力の拠点がこの地に存在し、それと朝廷との戦の記憶が伝わっているのではないだろうか。

古代、伝説の場所には国家が在り、そこには朝鮮半島からの渡来人が住んでいたのかも知れない。平和に暮らすその国を朝廷が征服する為に、滅ぼした事実が存在しているとは考えられないか。
日本の古代史では戦に勝利した側が、相手を悪の権化に仕立て上げ自分たちの正当性を主張する例が多く在るからだ。後ろめたい場合は滅ぼした相手を祭り、神として扱う場合も多々見受けられる。天神様「菅原道真」や平将門の首塚などはその例だろう。
想像を逞しくすれば桃太郎として今に伝わるこの伝説にも、朝廷にとって後ろめたいこの様な史実が存在していたのかも知れない。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-19 05:24 | Comments(0)

工業製品としての兵器

 第二次大戦での日本の誇るべき戦闘機は何と言ってもゼロ戦。この呼び名は正しくないが、零戦(れいせん)または零式艦上戦闘機と呼称する方がより正しいだろう。
この零戦には帝国海軍の無茶な要求をクリアすべく、様々な工夫が施されていた。
重量軽減のために限界までくり貫かれた骨組み、外板は新開発の超ジュラルミンで硬くて軽く、肉厚を限界まで薄く仕上げてあった。

当時、飛行機を生産できる国はアメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、イタリアとその殆どが西欧の国々に限られていた。その他の地域では唯一日本だけが飛行機を生産できる工業力を持っていた。しかし部品には輸入品や外国製品のライセンス生産品も多く、完全に国産という訳でもなかったが、若手技術者たちの努力によるその設計は独自のものだった。

零戦と並び海軍が誇った戦艦「大和・武蔵」も無論、世界に通用する立派な工業製品であった。幾重にも仕切られた船体はダメージコントロールを考えたものだし、巨弾を発射する砲を載せて旋回する砲塔はそれだけで数千トンもあり、これを安定して旋回させるには山積みであった技術的な課題をクリアする必要があった。
そればかりでなく巨弾を弾庫から上げる仕組みや、巨大な推力を搾り出す機関、砲弾そのものにも意外な工夫があった。海に着水した砲弾の頭部キャップが自然に外れ、水中を魚雷の様に水平に進む仕組みなどは日本の工業力・科学力の賜物だった。

明治維新以来、西欧に追いつけ追い越せと血道をあげて来た日本人が、百年に満たない短期間で先進列強に肩を並べた事実は十分に胸を張るに値するであろう。
だが見逃しては成らないことは、明治維新以前の江戸時代から、いやそれ以前の時代から培ってきた日本人の教養が基礎に存在しているということだ。戦後の奇跡的な復興も朝鮮戦争などの世界情勢ばかりでなく、その基礎が残っていたから成し遂げられたのだろう。

この優れた国民性を持って築きあげた工業力も、更に先を行く欧米列強の大量生産を可能にしたシステムの前に敗れ去った。日本の工業力はアメリカのそれの前では、大量生産が困難な手造りに等しかったからだ。更には基礎工業の力不足から油漏れが絶えない航空機用発動機、雑音が多く使い物にならない無線機、品質のバラツキが多い諸部品など未熟な工業力の弊害に現場の兵士が悩まされたのも事実だったようだ。

戦後は世界に冠たる優秀な品質を誇っている日本製品だが、昨今トヨタやホンダのリコール問題に見るように陰りが出てきた。現地人による現地生産品の欠陥が招いたトヨタの苦境は、下手をすれば日本工業界全体を揺さぶるスキャンダルに発展するかも知れない。
捲土重来を願うなら、政府は国民の教育に今一度の注力を成すべきだと考える。
戦後のアメリカ支配からいち早く脱して、日本人の本来の姿を取り戻す努力が必要となるだろう。
いや時代はもはやそれすら不要としているかも知れない。
精神世界では今後は意識の時代へと突入するとされているからだ。
意識の時代は感性の時代でもあろうし、魂の時代でもあるだろう。
本来は自然と共存する日本人の生活、習慣はこれからの時代にマッチする優れたものだ。
自然こそは宇宙の意思であり、法則の表れに他ならないからだ。
これからが日本人の本領が遺憾なく発揮される時代が来る、と信じて待ちわびている。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-18 05:46 | Comments(0)
古来、多くの教義には「カルマ」なる因果応報の法則が当然のように説かれている。
善因善果・悪因悪果がさも厳然たる宇宙の法則として厳格に作用しているごとくに表現されて定説として扱われている。
しかし、世の中をよく見渡してみると必ずしも悪人が悲惨な状況に陥ってもいないし、善人が幸福な生活を謳歌しているわけでもない。苦しい言い訳は過去世や来世への逃避行だが、そんなものは論外だ。どうにも不明瞭で納得がいかないのは僕だけか?そこで、何時もの声に質問してみることにした。果たして答えてくれるのか。

Q:カルマなる宇宙法則は存在するのですか?

A:存在しない。それが宇宙規模での認識だ。もしも仮に存在する証拠が見出されたとしても所詮はローカル・ルールに過ぎない。

Q:じゃあ、存在するんだ。それがメジャーでなくローカルな法則だとしても。

A:もしもと言ったよ。存在しないと明言した。

Q:あっ、そうか。では宿命や運命はどう?

A:そうだね、存在しない。人生には変更不可能な部分が存在するが、それは誰しもがそうで、この僕も例外ではない。
その一つが肉体的個性で、両親から受け継いだDNAの性質などだ。
それを君たちが「宿命」と呼ぶなら、「宿命」は存在することになる。だが、そのことと人生をどう生きるかは別の話しだ。

Q:生き方には肉体的条件も含まれるのではないかな。容姿の差は人生にかなり大きな影響を与えるし、遺伝病なんかも重要な問題だと思うけど。

A:普通に考えれば、確かにそうだ。だが、僕の視点は違う。
意識が全てを決定するんだ、人生の出来事の裏には全て意識が関与している。
従って、意識の意図に反したことは起こらない。

Q:へえ~、そう来るか。信じられないね、今までで、一番精彩を欠いた答えだ。

A:それが感想かい、君は今まで何を学んできたのかな?意識が選んだのだ。
その人の肉体的条件も環境も、人生の動かし難い条件を選択したんだ。
君たちの言う「宿命」とは、主に逃れ難い無理やりに押し付けられた状況のことだよね。
だけど欲する体験を得るために自発的にその肉体と環境を選んだとすれば、自ずとニュアンスは違ってくる。記憶が無いから信じられないのも無理はないが。

Q:でも例えば、事故で急死とかの場合はどう?事故に遭うことを願う人はいない「宿命」とか「運命」ではないのかな。

A:それは「縁」により起こる。君たちの偉大な仏もそう言っている。

Q:なら、意識が必ず関与するとは言えないね。

A:「縁」を呼び込むのは、意識だよ。危ない行動をすれば、それだけ危険も大きくなる。
危険な場所に居ても同様だ、違うかい?

Q:でも普通はそんな事、思ってもいない。無事を願いつつ事故に遭う場合は?意識は無事を願っているんだぜ。

A:確率的偶然が支配しているからね。

Q:何だって!!今、偶然と言ったかい?!意識はどうなった。

A:物理的現象の起こる確立を言った。これは意識より強い力で物質世界を支配する法則が存在するために起こる。意識は物質を創るが、物質が出現すれば物質的法則に従うようになる。人体も物質で構成されている以上、物質的法則に従う。だが肉体を破壊しても意識は破壊できない。
君たちや僕たちは物質的法則に支配された世界で、自己表現を行っている。そういうルールの下でね。

Q:君は違うだろう。個人的意識の中で、悠々と過ごしているんだ。物質的法則の影響を受けない世界でね。

A:僕も次元は違うが物質的世界に居るんだ。僕はこの次元で、君はその次元で各々の認識に基づいた「創造」、つまり自己表現を行っている。
これは一種のゲームだ、全ての出来事が一連の大きな流れに沿った中で行われる。
物質界独特のルールの下で皆がプレーしている。君たちの次元は分裂と統合を繰り返してきたが、今度は統合へと向かいつつある。まあ、ゆっくりと考えてごらん。

どうもこの会話からは明確なイメージが涌かない。「カルマ」の存在を否定してはいるが今ひとつスッキリしない。
全ては意識が選択するが、物質的法則にも影響を受ける。
現実の世界でカルマと断定されているものは意識の選択により発生し、物質的な法則が重なり全ての出来事が決定されるという意味だろうか?
それから最後に出てきた「ゲーム」とは、一体どういう意味だろうか。まだまだ質問を続ける必要がありそうだ。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-17 05:45 | Comments(0)
いつか尋ねようと考えていた事柄に次の様なものがある。
それは特定の個人が生涯に必ず行うべき課題や、宿命的なものが存在するのか、また人生には意義が在るのかどうかだ。

仏教では宿命とかカルマを説き、解脱に至る道を示している。だがこれは釈尊ご自身が説かれたのではなく、多くは後世に創作されたり改ざんされたりした結果が伝わっているに過ぎないとする説もある。カルマ自体はヒンドゥー教の影響だとする意見もある。
「大日如来」は宇宙根本の仏とされるが、これは一神教の原始キリスト教に対抗して創作されたらしい。さりとて、全てが虚妄とも言えまい。

とても巨大で困難な課題に挑戦したと感じ、後悔もしているがもう遅い。かくなる上は個人的意識の全力を以って、一応の仮説なり何らかの結論を導き出さねばならない。
少なくとも表層意識(エゴ)は何の答も持っていない、それどころか「こんな難解な事を言い出して、どうするんだ」と愚痴っている。

人生の意義について

A:確かに大変な質問だけど、ここは頑張って応えるよ。
人の存在はとても貴重で得意な事として、君たちの世界では認識されている。人類がどのような進化を辿って発生したとか、性善説や性悪説、人命の重さや人生には意義が在るとか無いとかの議論が絶えないね。
一応のニューエイジ的な考えは君も知ってのとおりだ。画期的に感じる人もいれば、君の様に疑問を呈する人もいる。

何かを表現し体験するためのアンチテーゼとしての存在意義は、確かに一理ある様に感じるだろう。
光を表現し存在させるための闇、善を表現し存在させるための必要悪などがそれだ。
故に絶対悪は存在せず、光の陰としての闇という考えに至る。
だが、君はフト思ったんだ。何時も光は光として、闇は闇としてしか存在しないのならそこに真実の創造の愛は在るのか、と・・・。
光側は良いけれど闇の役割ばかりだとしたら、余りに惨めで不公平だと感じたんだ。
そして「地球」と「人類」を特別視していない君は、自分を含めた地球人類が闇の役目しか与えられていないと感じたんだ。

Q:確かにそうだ、君を介して届けられるメッセージを読む限り、そう感じない方が不思議だよ。やがて究極の闇を演じる時が来るかも知れない、全宇宙の人々に光を自覚させるために・・・・。

A:いいや、もう十分に光のための闇を演じているよ。では君の否、総ての人々の存在意義についての説明を試みよう。
ズバリ、人生には意義があるよ。多くの人々は簡単過ぎて見逃しているか、知っていても信じられないのだ。君たちの存在そのものが、意義を有しているのだ。君を含めた総ての人の存在は、宇宙にとってとても重要な意義がある。嘘ではないよ、歴然とした事実を言っている。
総ての存在はそれに相応しいと「価値」と「力」と「意義」を有している。

Q:でも不幸を、つまり孤独感や無力感を感じてどうしようもない。この会話も所詮は作り事かも知れない。作家が小説を書くように、フィクションを綴っているだけかも、と感じるんだ。とても自信は持てないよ。

A:まあ、無理もないがね。僕のいう意義には二つの視点がある。
君が考えるのは人類や自分にとってのそれだ。僕は「創造」にとっての視点からこれを論じている。この違いは歴然としている。
だが君の様に答を出そうと試み、様々に葛藤し行動すること、それこそが君たち人類にとっての存在意義なのだ。

君たちの様々な葛藤が創造にとっての経験と自己表現を多彩にする、それこそが創造の一部として君たちが獲得する意義なのだと思うよ。そういう点では、僕も変わらない。
しかし僕は孤独感や無力感を感じることは無い、何時も自分の存在が創造に貢献していると知っているからだ。君も僕も創造のメンバーなのだ、だから創造に貢献することは自分に貢献することなのだ。
誰かと一瞬でも「一体感」を感じた時はとても嬉しいだろう、それは君が創造のメンバーであることを思い出した瞬間だからだ。

まだこの議論は続くのだが、とりあえず人生には何らかの意義があるという結論にたどり着いた。話しは思いも掛けず宇宙創造の意識にまで及んでしまった。これから先、どこまで果てない話しになるのか?総ての存在は完璧であり、それに相応しい価値と力と意義を有しているという。人類のそれは創造の欲する自己認識に貢献するため、仮想世界での人生体験を得ることにあるのだろうか。しかしそれは決して異なる存在のためではなく、私たち自身に貢献することでもある。何故ならば「創造」とは私たちの意識の総体に他ならないからだ。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-16 05:53 | Comments(0)
 祖母は老人介護施設に入所しているのですが、もう99歳で寝たきりです。
金曜日に施設から連絡があり土曜日に父と叔母が、今日は医師とのお話しで父と僕が祖母の許を訪問しました。
医師の話しでは暫くは大丈夫だろうが100歳の誕生日までは判らない、現在のところは容態も持ち直したので近々どうこうなる心配も無いと言っておられた。

 祖母の人生を思うと、本当に長生きが幸福なのか?と素朴な疑問を持ってしまいます。
戦争で夫を亡くし早くから寡婦となった祖母は、農業と建設現場などで働き続け叔母と父を育て、更には自分も小学校を卒業するまで祖母の許で養育していました。
勝気で強い人でしたが、それでも女性の人生としては寂しいものだったに違いありません。
両親から強引に僕を引き離し、自分の許で育てたのも寂しさからなのだろうと思います。

小柄ながらも重い稲を担ぎ、夜なべして一人で脱穀、精米している姿は今でも眼に焼きついています。そんな力強かった祖母が、今では手足も満足に動かせず意識も朦朧としたままの姿で目前に横たわっています。僕を判っているのか否かさえ定かでなく、ただ機戒仕掛けの人形の様に頭を僅かに動かし続けている祖母。
見たくない光景ではありますが、現実から眼を背けることは出来ません。

曾祖母も長命でした。僕が幼いころに他界した曾祖母は、自宅でゆっくりと蝋燭の灯が消えるみたいに亡くなりました。老衰による自然な死でした。曾祖母の場合は最後まで家族と一緒でしたし、今の祖母よりは幸せだったかも知れません。
祖母も女性にとって辛い時代を生き抜き、1911年から現在まで何とか健在です。
祖母の終の場所は養護施設になります、残念ながら祖母が守ってきた山村の家はもう人が住める状態ではありません。祖母にとって父の家は施設と大差ないほどに馴染みが無いのです。

祖母の姿を見るにつけ、自分はどんな最後になるのか?と考えずには居られません。無論アセッションなる事態が発生したとすれば、話しは違ってきますが・・・・。
恐らく孤独死になるはずです。まあ野垂れ死にでも構わないのですが、それまでにどんな人生を歩んだのかが問題なわけです。なぜなら死に様は生き様と考えるからです。

どんな死に方でも「死」そのものは変わらないのですが、肝心な点は自分が納得できる生き方を出来るかです。霊的教義を学び、それを実践できれば満足でしょうが未だに道半ばにも達していません。人との関わりや友誼が自分には不足していると感じています。
ですからネット上の日記を通して関わって下さっている方々には、深く感謝しています。
コメントを下さったり、コメントをさせて頂いたりする関係でしかないのですが、それでも貴重な機会だと思っています。他の人へのコメントは自分自身に言い聞かせている部分も多聞にあります。
そんなわけで、皆様これからも宜しくお願いします(^^゛
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# by levin-ae-111 | 2010-02-15 05:44 | Comments(1)

栄光は危険と隣り合わせ

 バンクーバーオリンピックが開幕した。今は華やかなオープニングセレモニーが行われている(日本時間13:19現在)。
その陰でリュージュの練習中に一人の若者が死亡した。最高時速160キロにも達するといわれるこの競技は、仰向けの状態で氷のコースを滑り降りる。以前は130キロ程度だった速度が、年を経るごとに高速化し現在では上記のような速度にまで達した。
調べてみると過去にも数例の死亡事故が発生している。
前日からの練習でも、何人もの選手がコースを逸脱しそうに成り恐怖を訴えていたという。

冬季競技は危険なものが多いように思うが、それは人間の身体能力を超えた滑走速度にあるのだろう。リュージュ、スケルトン、ボブスレー、ダウンヒルそのどれもがカーレースにも等しい速度で競技が行われている。選手たちは日頃の厳しいトレーニングと精神力で恐怖と危険に立ち向かう。それでも限界を超えると酷い事故になり、今回のような事態にもなる。
栄えある五輪選手たちの健闘と無事を心より祈りたい。

五輪とは関係ないが、カナダは未だに国家元首が「総督」なのだと、初めて知った。
イギリスの植民地であり、独立してからも英連邦の一画である事は知っていたが未だに「総督」とは、何か不思議に感じてしまった。だとすればカナダの真の国家元首はイギリスの女王様という事だ、名目だけなのかそれとも実質的な権力を伴うものなのかは知らないが。

今でこそ五輪競技はスポーツだけに限られているが、その昔は芸術や技術分野の競技も同時に開催されていた。日本も美術品の分野では幾つかメダルを獲得している。
競う事が大好きな地球人、美辞麗句のオリンピック憲章、ビジネスとしての五輪、この華やかな開会式に漕ぎつけるまで裏でどれ位のお金が動いたのだろう。
なに、偏屈者の独り言です。
折角の五輪、今は選手たちの素晴らしい勇気と技と力を堪能しましょう。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-14 09:42 | Comments(0)
 先々週に借りた本を何冊か返却し、また図書館の書架の通路を物色しながらウロつく。郷土史、富山の歴史、物語、などのコーナーを何度も往復し、下段までじっくりと観察する。
別に特定の書籍を探しているのではなくて、ズラリと並んだ本の背表紙のタイトルを読みながら自分の感性に何かが引っ掛かって来るのを待っているのだ。
先日友人のネット上の日記には「本屋は危ない」というユニークなタイトルのものが掲載されていて、それを読んだが確かに尤もな主張に違いないと感じた。

本屋は読書好きにとって、実に危ない場所なのだ。そこでは読みたい、欲しいと思わせるタイトルの本が並んでいて、繁華街の呼び込みさながらに各々が「買ってくれー」と主張している。そして誘惑に負けると数千円の出費となり、フトコロが悲鳴を上げる事になる。
その点、図書館ならそのリスクはゼロだ。好きなだけ物色し、好きなだけ借りる。
バカだから返却期日までには読了できそうもない程の書籍を借り、ルンルン気分で帰宅し朝寝坊の心配をしながらもギリギリまで夜更かしして読み始める、何時もこのパターンだ。

今日は祭日なので返却がてら好みのコーナーを物色、以前に読んだ覚えのある本が何冊も並んでいる書架を見てもピンと来ない。大体が目的の本が絞り込まれていないので、そうなるのだが、ここで閃きキター。
佐藤愛子さんのエッセー、久しぶりに読んでみたいと僕の感性が訴えている。早速、有りそうなコーナーへササッと移動し、目を皿の様にして愛子さんの著書を探す。
あった!!しかし、たったの二冊しかない。しかも一冊は以前に拝読した。
でもラッキーな事に残りの一冊は新しい。
どれどれ、タイトルも面白そうだ。で、この日記のタイトルにその本のタイトルを冠する事になった。

早速、読み始めたが、やはり面白い80歳を過ぎた方の文章なのだが相変らずの愛子節が生き生きと躍動している。読みやすく、一々に納得の彼女のエッセーは実に素敵な文章だ。
彼女の様な文章を書きたい、読み手に親切である種の懐かしさを感じさせながらも筋の通った歯切れの良い主張がたまらなく魅力的だ(懐かしさを感じるのは年寄りだけでしょうが・・)。
大好きなのですぐ読めてしまうが、毎日一編ずつにしよう。読了すると寂しいから。

おっ、何か日記らしい内容になったぞ(^-^゛
と、満足する今日でした。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-13 09:12 | Comments(0)

 三週間前に図書館で借りた本を、ようやく読了した。タイトルは「海を越えた縄文人」。
返却期限をとうに過ぎてしまったが、申し訳ないと思いつつ読了するまで手放せなかった。
この本は縄文人が遥か1万数千キロに及ぶ大航海を経て、最終的には南米大陸にまで進出し彼の地の文明に影響を与えたとする仮説(実は影響などと呼べるものではなく、文化の担い手であった)に基づく検証の旅の記録である。

日本で土器製作が始まったのが1万6500年前、赤道付近の南洋諸島への航海が始まったのが5000年前とし、最終的にはその時代の土器が南米大陸から発掘された。
従来の説では地続きとなった箇所から何世代も掛けて海を渡ったとされていたが、実は航海技術を用いての旅の結果であるらしい事が本書では述べられている。

一行はゲストに俳優の仲代達也さんを迎え、彼が中心となり南洋の島々では歓迎の儀式に臨んだり、訪問の儀礼を行った。その島々で先祖崇拝や言葉の意味や様々な習慣や祭りが、日本では既に失われたもの含めて存在している事実に遭遇したりした。
貝殻の通貨や葉っぱの通貨が流通するラバウル諸島で、仲代さんも葉っぱの通貨を作り買い物までしている。
更にはイースター島でも不思議な日本との符号を発見する。モアイ像の据えられている土台の下はお墓になっている。縄文人は大地や家族の魂との繋がりを重視し、竪穴式住居に住み、その下には家族を埋葬していた。現代でも地方によっては家の敷地内に墓がある。

そして機織や不織布に見る日本との共通点、船を棺にする安置の習慣、ヒスイの加工技術など日本を経て伝えられたと思える事象が幾つも挙げられている。そして遂には南米大陸へと上陸する。
そこでは体内に見立てた穴倉をくぐる宗教的な儀式や、太平洋から来て国を造り去っていった神の伝説。イタコの様な死者の言葉を伝えるシャーマンの存在が日本との共通点を際立たせている。

そして極めつけはペルーの内陸部に忽然と出現した土器文化の存在。世界でも類を見ない縄目の土器、そう縄文土器である。この土器は単に厚手の素焼きではあるが、技術的には製作がとても困難なものらしい。日本でも焼成途中で失敗したものが、多数出土している。
従っていきなり完成したものが、しかもデザイン的にも洗練された作品を制作するには技術的な下地が必要なのである。それが、突然に何の前触れもなしに出現していたのだから縄文人との関連は否めない。
そして日本と同じ「縄文の女神」(石に線刻された女性像)と呼称されている石土偶も出土して、縄文人との関連性が決定的になる。

山間部にも関わらず海草を食べる習慣、今も尚お歯黒の習慣を残す少数部族の存在。
遺伝子的にもアイヌ人と南米インディオの関係は立証されつつあるなどの科学的証拠や、事故により流出した大量のビニール製おもちゃの漂流を追跡した結果では、漂流状態でも2年で南米へ到達する事実を挙げるなど仮説の補強も忘れていない。

魏志倭人伝に残る黒歯国や裸国の記述、黒歯国への道程は倭国から船で1年と記述されているらしい。魏志倭人伝には倭人に関わる事のみが記されているから、この二つの国はやはり赤道付近の島々(裸国)と南米大陸のエクアドル付近の(黒歯国)の事を示しているのではなかろうかとしている。日本でも女性の習慣として「お歯黒」が近世まで存在した。
それから刺青の習慣、日本でも中国から儒教が渡来する以前には刺青の習慣があったらしい。南洋の島々では、刺青文化が生活に定着している。

余りにも多岐に渡る逸話と、島々の習慣や発掘事実に基づく論説が駆け足で述べられているうえに、読者が読了を急いだ為に熟読できておらず、断片的な文章になってしまった。ただ最後に仲代さんのコラムが印象的だった。
この一年近くにも及ぶ取材の旅を終えて、彼は自分探しの旅と位置づけた目的は達成されたとしている。そして魂の触れ合いをそこここで感じたネシアから南米への旅には、祖先を共有する人々との共通の血の流れを感じられた様である。
それを仲代さんは「魂の交流を大切にする文化圏」と表現され、その後にニューヨークへ旅した折にそれまで無かった違和感が有ったと述べている。西欧では意思を伝えるのに文字か記号しか伝える手段が無いと感じられたらしい。

無論、それは全体的な雰囲気と文化の違いを端的に表現されたのであり、決して西欧の人々が魂の交流を否定していると決め付けているのではない。
この科学技術時代にも素朴な生活ながら魂の交流を重視する南洋の人々と、便利な機器に囲まれながらも経済動向や孤独感、義務感や時間に縛られる生活のどちらが人間らしいのだろうか。
こんな時代だからこそ、その両面を持つ私達「日本人」の存在が重要なファクターとなるのではないかと感じる。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-12 05:50 | Comments(0)

闘茶の会

 茶の湯といえば、千利休や古田織部などの時代を超越した有名な茶人が存在したが、両名ともその主君から切腹を命じられ落命している。
利休は「わび・さび」を追及し、織部は「ひょうげ=不完全なものに美を見出す」で一世を風靡する。しかし今日はその二人が世に出るずっと以前の時代から続く「闘茶」、つまり茶を題材にした「賭け」の話しだ。

「闘茶」は室町時代あたりから盛んになり、明治時代ころまで上流階級から庶民に至るまで広く行われたという。
室町時代には守護や地頭たちから、底辺の武士までが一同に会して度々に催されていたらしい。その賭けとは本茶(京都産のお茶)と非茶(京都以外の産地のお茶)を当てたり、銘柄を当てたり、使用されている水を当てたりと難易度の高いものから、茶柱が立っているか否かを当てる単純なものまでと様々だった。

「闘茶の会」は主催者がその場を取り仕切り進行され、上流階級の武士も下級武士もともに同じ会に参加し各々に賭ける品物を持ち寄って開催されていた。勝負は最後の一人が勝ち残るまで続けられ、優勝者が賭けに供された品物を根こそぎ持っていく。

参加者の中には家や土地を賭けに供し、一発逆転の人生を狙う強者(狂者?)までいた。人生を賭けた大勝負に破れ、家屋敷を失い浮浪者となる者も居たらしい。
極端な場合には、荘園を賭ける守護や地頭まで存在したらしく、幕府は闘茶の会を原則として違法としたが、後世まで存在し続けたところをみると取り締まりは厳しいものではなかったのだろう。

現代日本でも競馬、競輪、競艇と公営ギャンブルが盛んだが、これで身を持ち崩す人々も多い。一方で民営の賭博行為を禁止し、厳格に取り締まりをしている。
公営ギャンブルと一般の賭博行為の違いとは主催者の違いと、その公平性の違いに在るのだろうがどうも釈然としない。そこには胴元が国に変わっただけの純然たる賭博が存在するのみだ。
国家が主催し合法とされピーアールさえされているが、権力の身勝手としか思えない。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-11 07:32 | Comments(0)

落ち武者

戦国時代の大名は領国から農閑期に百姓をかき集め、戦に臨んでいました。
そんな中で尾張の織田信長は早くから浪人を雇い、軍事専門の軍団を造り上げていました。
しかし、それが強いかといえば実は弱かった。
郷土への愛着も無く主家への忠誠心も薄く、金で雇われた兵達はいざと成ったらサッサと逃げ出してしまったからです。しかし悪い点ばかりで無く、勿論のこと強みもありました。普通は農繁期には兵を集められず、戦をする時期も不文律の様に農閑期と決まっていたのでした。自然と敵もその様な時期に相手が攻めて来ると思い込んでいます。
そこへ織田軍が侵攻すれば、敵は何の準備も出来ておらず信長は容易に敵を殲滅できたのです。
 信長のそんな軍略以前にも敵の領地に忍び込み、青田刈りを行い米の収量を激減させる戦略も採られたといいます。

戦が打ち続く世の中で、次第に他の大名も兵力の不足を傭兵で補うようになっていきます。
金で雇われた者の中には、武士もいれば百姓崩れの者もいました。江戸時代とは異なり、戦国時代には明確な身分制度が確立していなかったからです。有名な人物では宮本武蔵も若き日に関が原の戦いに、雑兵の一人として参戦していたと伝えられています。
さて、雇われた兵士は勝てば継続して雇ってもらえますし、手柄が認められれば出世も夢ではありませんが、負ければその時点で失業です。
命からがら戦場から離脱し、敵の検索の目をくぐり抜けてひたすら逃亡しなければ成りませんでした。

落ち武者となった兵士が注意しなければ成らないのは、敵の兵士だけではありません。
田畑を戦で荒らされた百姓衆もまた、彼らを付け狙います。百姓衆は戦場から刀や槍、甲冑など金目の物を拾い、敗残兵の首を狙っています。それは敵兵の首を勝った側が何がしかのお金で買い上げていたからです。
耕地を戦で荒らされた怒りも手伝って、百姓衆の落ち武者狩は熾烈を極めます。竹やりや釜で武装し、人数を頼んで落ち武者を狩るのです。
そして基本的には土地勘も百姓衆の方があり、落ち武者の逃亡は困難を極めただろうと予想されます。

全国各地の落ち武者伝説は、平家などの戦国時代以前のものが多く人心もさほど荒廃していなかったと推測されます。戦国時代には人心も荒廃して、多くの名も無き落ち武者が狩られたのでしょう。戦国時代とはそういった厳しく、残酷な時代だったのです。
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# by levin-ae-111 | 2010-02-10 05:46 | Comments(0)